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スカイ・スイマー

万年筆が紙をひっかく音は結構好きだ。


増岡が仕事を片付け終えるのを、益田はすぐ側の客用ソファに座って、それなりに楽しく本を読んで待っていた。もう待つのにも慣れた。今日も弁護士事務所に来る前に探偵社近くの古書店街をぶらついて、時間を潰すための本まで買ってきている程度には。

事務仕事特有の音と、本の頁をめくる音だけがする静かな部屋に、ジリリリリリと電話の音が鳴り響く。

週末の夜だなんてことは、この職業には関係ないらしい。今週末もゆっくり一緒になんて過ごせそうにないな、と早くも諦めた時、増岡が電話をとった。


「はい。あぁ、僕だ。なんだ?」

――――僕?

僕、と言ったか、今。

耳に届いた言葉に驚いて、顔を上げる。

増岡が「僕」を使うだなんて知らなかった。しかも、それがどうにも馴染んでいないのが可笑しい。まぁ、こちらが慣れていないというのが正確な表現で、増岡にとっては自然なのだろうけれど。

少し面白いものを聞いてしまった。

浮かんだ笑みをそのままにしていると、増岡がこれ見よがしに眉を顰めて寄越すが、それすらも愉快で、だが流石に電話の邪魔をする気はなかったので声を殺して笑った。

相手は誰だと視線で問うと、「母親だ」と早口で告げられた。そのまま指を向けてこちらへ来いと合図するのが見えて、請われるままに増岡の執務机に近寄った。

「なんですか?」
「しばらく代わりに話してくれ。私は忙しいんだ」

自分のへらりと浮かべていた笑みが、消え失せた。何を言っているのか、分からない。というより、分かりたくない。

「別の男に変わる」

電話の向こうにそう告げてから押しつけられた受話器の送話口を慌てて塞いだ。

「え、ちょっ、何を考えてるんですか!?頭大丈夫ですか!?」
「あぁ、勿論な」

シガレットケースから煙草を取り出し、火をつけ始めるのが憎らしい。忙しいんじゃなかっのか。これは確実に嫌がらせの一環だ。


相手の親御さんと会話。

こんな緊張することがあるだろうか。そんなに多くはない筈だ。ましてや自分は男で、顔向けできる立場にないから余計に。意趣返しにしても度が過ぎる。

無茶苦茶だ。どうかしてる。


言葉が見つからぬうちに、受話口からもしもしと言う声が聞こえたので、兎に角出た。

「ま、益田と言います。息子さんには日頃から大変お世話に…」

しどろもどろになりながら、一般的な挨拶をしようと試みた。恋人だとは言われてないのだから、同じ職場で働く人間のフリでもして、この場は切り抜けようと思った。増岡の忍び笑いが漏れ出て、すぐ隣から聞こえてくる。

なんて大人げないんだ。

お堅い職の高給取り。結婚相手としてそんな申し分ない条件を持ち、女性が苦手な訳でも、口下手なわけでもない男が、三十路の半ばを過ぎるまで縁談をまとめずに過ごしてこれた理由をはっきりと悟った。性格に難がある。

そもそも出会ったその日からおかしかった。警察を辞めて探偵になるだなんて考えは君の為にはならないよ、だかなんだか、それに近いことを言われた。初対面で。

どうやって育てればこんな男になるのか。このまま是非ともお母上にお聞きしたい。そして本にでもまとめたい。反面教師に丁度いい。逆の教育をすれば、物静かで謙虚な子供がすくすく育つんじゃないか。

嫌味の一言も言わず、年上としての余裕をいい塩梅で持ち、にこやかに笑う男になる筈だ。思考ついでに、そんな増岡を想像してみる。本人との乖離が甚だしい、どちら様ですか状態の男を想像する。

スーツまでは浮かんだ。これはそのままでいい。どうでもいい部分だ。問題は、その首から上の表情だ。にこやか、にこやか。穏やか。


…まったく想像がつかない。


想像力に限界を感じて、本人を補正していく方向でいこうと、電話の向こうと世間話を続けながら増岡をじっと薄目で見つめていると、なんだと言わんばかりに睨まれた。

その表情が余計に想像するのを難しくさせるので、更に目を細めて見る。ぼんやりと姿が浮かぶ。笑みを優しくして、雰囲気を柔らかなものにして。そうしていると朧気ながらも想像出来てきた。


そして愕然とした。


それなりに魅力が増す筈のその男に、まったく魅力を感じなかった。恐ろしいことに。

これは、まずい。

常々うんざりだと感じていた筈の部分を排除したのに。

それなのに。


――――どうも物足りない。

どうかしているのは自分の方だ。


迷惑ばかりかけているでしょう、ごめんなさいね、と謝る電話の向こうの声を否定した。

「そんなことはありません。…とてもよくして頂いています」

気づけば、増岡の顔をまじまじと見ながら大真面目に言っていた。


ちょっとばかり高慢で、嫌味を言うつもりもなくとも嫌味に聞こえる話し方をするのに、そこからさらに嫌味を言うときもあって、相手がどう思うかを考える前に自分の意見をすぐさま言う。だがそれは、自信家で率直なだけだ、というのはあまりに贔屓目が大きいか。

眼鏡の奥の瞳がこちらをじっと見ていた。気恥ずかしくなってきて、へらりと笑って視線を逸らした。増岡の手元を見れば、煙草が随分と短くなっているのに持ったままだった。

受話器を持たない片手を伸ばし、大きな執務机からガラスの灰皿をとって、嫌味たらしく差し出してやった。何を動揺しているのだと揶揄するように。

たん、と強く無言で煙草を灰皿に押し付けてくる増岡の苦々しげな表情と、その力の強さが愉快だった。



意地の悪さがちょっとばかり伝染ったかもしれない。


そんな責任転嫁の言葉が浮かぶ程度には、隣で過ごしているのは何故なのか。その理由はもう嫌になるほど分かっている。


灰皿を元通りの場所に置くために体をひねり、そこから振り返って再度増岡の方へと向いたのと同時に唇に温度を感じた。煙草の苦味も。

とっさに受話器の送話口を体に押し付けて塞いだ。明らかな意図を持って益田の身体を這う増岡の手がそれを奪っていった。すぐにチンと音がしたから切ったのだろう。シャツの裾が服筒から引っ張り出される。

いきなり切れたことに驚いてかけ直してきたのか、しばらくすると電話の音がまたジリリリリと鳴った。

でもそのときにはもう、電話を気にかける余裕なんてなかった。




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タイトルは「六区」様からお借りしました。


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