信号が青に変わるまでにできること




俺の通学路には、信号機が5つほど存在する。大抵どの信号機もひたすらに赤色で、一度その赤に捕まってしまうと次の青にお目にかかれるのは、たくさんの車が通り過ぎ、ずうっとしばらく立ち止まったあとである。

大体の人はこの待ち時間を忌避するために足早にその場を通り過ぎるが、俺はこの信号機が赤色を指している時間が好きだったりする。人生、何事もゆっくりとマイペースに進むのが一番だ。生き急いだって流れる時間は変わらないのだし、せかせかと波風を立てたそんなせわしい日々なんてまっぴらだ。それに、ほら。多少遅刻をしたって、信号機に捕まってました、なんて言えば優しい優しいおじいちゃんセンセはにこにこと笑いながら許してくれるし。急がば回れ、なんて言葉もあるじゃん。何事も、落ち着いてなきゃダメなんだよ。


まあ、青色を待つまでの間の暇を持て余す俺には、流れる雲を観察したり、目の前を横切る野良猫に話しかけたり(大抵無視される)、隣にいた老夫婦の学生時代の甘い青春話を聞いたりと様々なことが毎回起こり、喜ばしいことにその時間は暇と呼べなくなる。この間はベビーカーに乗った赤ちゃんとそのお母さんと会話をして朝から微笑ましい気持ちになったし、目の前を横切る野良猫が真っ黒くろすけだったからその後ろ姿に少しだけ舌を出したりした。待ち時間は毎回毎回が新鮮で、早足でかけていく人を見るともったいないなあ、とちょっとだけ優越感に浸れる。ちなみにその黒猫は俺が信号待ちをしていると度々現れるので、クロスケを名付けてそれなりに可愛がっている。現に、やっぱり今日も赤色に捕まり、のんびりと空を見上げていた俺のとなりにちょこん、と黒くふてぶてしい物体がいつの間にか鎮座していた。


「およ、クロスケおはよ。相変わらずでっかい体してんねぃ」


俺がにこやかに話しかけても、ふてぶてしい黒猫はふい、とそっぽを向いて、またふらりと朝の街中へと消えていった。ゆるく揺れる長い尻尾にひらひらと手を振り、その後ろ姿を見送る。これも、毎朝の光景で随分と慣れてしまった。クロスケももーちょい愛想見せてくれてもいいのに、と毎朝見送る後ろ姿を見つめながら、毎朝思うことをやっぱり再び考えた。だが、俺が見送る黒はクロスケだけじゃないのだ。それまで花壇の端に座っていた腰をゆっくりと上げ、ちょっとだけ横断歩道の方へと近づく。看板の右端と太陽が、ぴったり重なる頃。もうそろそろで、彼はまた来るのだろうか。ゆったりと腕を組みながら、横断歩道の向こう側へとじっと目を凝らした。


「お、きたきた」


上を見上げれば、看板の右端と太陽がぴったりと重なっている。横断歩道の向こう側の曲がり角から、他校の制服に身を包んだ黒髪の少年の姿が見えた。手には小さなノートとペンを持っていて、時折何かハッと思いついたように顔を上げると、嬉しそうに顔を綻ばせてペンを走らせている。その笑顔を見ると、ああ、やっと一日が始まったなあ、と思えるのだ。少年が顔を上げると、ちょうど俺の瞳と視線がぱちり、と重なった。にっこりと笑いかけると慌ててノートを鞄の中にしまい、黒髪を揺らして小さく会釈をしてくる。別に、隠さなくてもいいよ。そんな意味合いを込めて、さっきまでノートを持っていた左手をとんとん、と叩いたら、彼は気恥かしそうに目尻を下げて、照れたように笑った。

信号が青色に変わり、人の流れがゆっくりと動き出す。そんな人の波に抗うことなく飲まれ、足が自然と前へ進む。彼も横断歩道を渡っているようで、ちょうど道の真ん中ぐらいでまたぱちり、と瞳がぶつかった。少しだけふたりで立ち止まり、彼のふふ、という笑い声でまた歩き出す。彼の持っていた鞄が、俺の体に触れた。


「伊月、おはよ。小テストがんばれ」

「おはようございます、春日さん。春日さんも、苦手だからって物理の授業寝ちゃだめですよ」


通り過ぎる間の、わずかな時間。その時だけ交わされる二言を背中で聞き、振り向かないでそのまま足を進めた。よし、今日も頑張れる。絶対に授業なんかで寝てやるものか。通り過ぎる間際の伊月の柔らかな笑顔を思い出し、少しだけ足早に学校へと向かった。



ふたことのしあわせをしようじゃないか


title:休憩





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