私にだって雨は降るのよ




春の雨、とでも言うのだろうか。

待ち人をひたすらに待ち続ける時間は、非常につまらなさを感じさせる。手のひらからは少し余る大きさ程の文庫本を手に持ちながら、改めて分かるその事実をひしひしと実感していた。
予定時間の十分前には行動することを厳守としている者にとっては、待ち時間は否応なしに訪れるものだ。だが、この待ち時間の手持ち無沙汰な雰囲気には、相変わらず今となってもあまり慣れることができない。こうのんびりと人を待つよりは、せかせかと行動を起こしている方がよほど楽なものだ。しかもつまらない上に時間はいつもよりもゆっくりと動くのだから、本当にタチが悪い。壁にゆっくりと凭れかかって文庫本を開くが、あまりページをめくる動作が進まないのだ。だが、暇をつぶせるものといえばこんなものしか手元には存在しない。仕方なく目を通してみても、さほど頭には入ってこない。
待ち時間は、あまり好きではないな。そんなことを考えながら、しばらくの間黙々と小さな文字を目で追っていた。


少しだけ擦り切れ色褪せた文庫本のページに、ぽつりと小さな染みが出来た。一体なんなんだ。不愉快だとは思いつつも、さほど気に止めずにページをめくっていくと、ぽつりぽつり。次第に水が落ちてくる感覚が狭まってきて、僕の髪からも小さな雫が滴り落ちてきた。さすがに煩わしくなって、文庫本から目線をあげて空を見上げる。さっきまでの気持ちのいい程の青が、いつの間にやらどんよりとした曇天だ。この時期に雨とは、珍しい。
ゆるやかな雨は次第に激しさを纏い、やがてざあざあと本格的に空を曇らせた。この状況では、本を読み続けることは難しい。諦めて端のほうが縒れてしまった本を鞄の奥にしまいこみ、自身も軒下へと体を滑り込ませる。少しだけ肩が濡れるが、全身ずぶ濡れのままで居続けるのよりはマシだろう。頬にたれてくる雨水を、ごしごしと手の甲で拭った。


「……あと、二分か」


雨水がかかった腕時計をこすって、時計の針を確かめる。約束の時間は、確か3時ちょうどだった筈だ。だが皮肉にも、長針は少しだけ12から逸れている。それは、待ち人がまだこないという十分な証拠だ。なんだか腕時計の重さが酷く不愉快で、するりと腕から外して文庫本と同じように鞄へとしまう。ずっとそこに存在していた場所には、巻き付くような赤い痕がついていて、非常に不愉快だった。


本を読もうにも雨に濡れて読めず、何か他の事で暇を潰そうにも生憎何も持ってきていなく、しょうがなく雨音を聞くことのみに徹していた。古い屋根やアスファルト、草木や通りかかる車にも雨音は響いて、静かながらもとても煩わしい騒音を奏でている。

これだから、雨の日は好かない。しとしととしおらしく、やんわりと心を穏やかにさせると思えば、裏を暴けば自己主張を激しくぶつけ合うはた迷惑な騒音ばかり。これならば、たおやかな陽だまりにいる方がよほど心も休めるというものだ。雨音など煩わしく、不愉快なことこの上ない。騒音が大きくなり、やがて耳いっぱいにぐわんぐわんとうるさい音を響かせる。肩を濡らす雨が、次第に激しさを増したような気がした。


「あれっ赤司っちもう来てたんスか……ってなにやってんスか!!?ずぶ濡れッスよ!!?」

「ああ、涼太。随分と遅かったな」

「俺、一応時間ぴったりに来たんスけど……」


僕がいる位置からひとつ道路を挟んだ、少し開いた広いスペース。いつの間にか、そこに一台の車が止まっているのが見えた。なるほど。さっきの騒音は、車のエンジン音か。車の助手席の窓からは、僕がしばしの暇を持て余し、ひたすら待つことに徹していた待ち人がひょこりと顔を出している。その待ち人、涼太は急いでいるといった様子で慌ただしく車から降りると、僕の方へと駆け寄ってきた。手には、タオルが握られている。


「あーもう、こんなにずぶ濡れになっちゃって……どうせ赤司っちのことだから、十分前には来てたんスよね」


悪いことしちゃったッスね。涼太は僕の頬にかかる雨水を拭うと、持っていたタオルで僕の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。がさつで粗野な手つきだが、時折触れる指先がひんやりと冷たく、少しだけ心地がいい。されるがままになっている僕を見て、涼太はめずらしい、と苦く笑っていた。


「赤司っち、カサ持ってこなかったんスか?」

「正午の時点では、雨が降るとは一言も言っていなかった。かさばって邪魔になるだけなら、必要ないと感じたまでだ」

「いっつも用意周到なくらい、いっぱい準備してるっていうのに…」


一通り僕の頭を拭き終えたらしく、涼太は満足げな顔を浮かべてもう一枚のタオルを僕の肩にかけた。さっきまで車の中にあったからか、触れた部分からかすかにあたたかさを感じる。さすがにそろそろ体が肌寒さを訴えてきたところだったので有り難く使わせてもらうと、涼太は堪えきれない、といった様子で、笑みをこぼしながら吹き出した。


「人を見て笑うのは、いい趣味とは言えないな」

「ご、ごめんッス!あの、なんか、赤司っちがずぶ濡れなんてやっぱ新鮮だなーって…」

「僕にだって、雨に濡れるときぐらいあるさ。それとも、涼太は僕が雨の日は一歩も外に出ないような人間だと思ったのかい?」

「いや、むしろ高級リムジンで送迎の方ッスかね」


楽しそうに笑みを浮かべる涼太の肩が、どんどん黒い染みに侵食されているのが目の端に映る。黄の髪から滴り落ちる水滴が、滑るような頬をやんわりと濡らしていく。 雨音に負けないようにと少しだけ声を張る僕に、きっと涼太は気がついていないだろう。 涼太はふう、と溜息を零すと、乱雑に頬の水を拭った。

やはり、雨はあまり好かないな。



∴私にだって雨は降るのよ


title:SAKU SAKU




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