呼吸なんてわからないの




人気のない図書室からは、自分たちが生み出すさらさらとしたシャープペンシルの音だけしか聞こえない。春日はしばらくにらめっこをしていた問題集から目を離すと、ことん、と手に持っていたシャープペンシルを机に置いた。
一体、何時間やっていたのだろうか。ひたすらに数式とにらみ合っていたせいか目はちかちかとするし、頭は酷くガンガンと鳴り響く。ああ、数字なんて、この世から消えちゃえばいいのに。痛みを訴える頭を少しでも冷やそうと、申し訳なさげに机の端に身を寄せるペットボトルに手を伸ばす。多分これは、岩村が買ってきたものなのだろう。ビニール袋から、俺がいつも好んで飲んでいた透明な炭酸水と、自身が好きな何の変哲もないただのお茶が仲良く並んで見えた。


「春日、もう終わったのか」

「んー?全然、ちんぷんかんぷん。むしろお手上げ、俺の頭キャパオーバーでパンクしちゃう」


ばつばつばつ、苦笑混じりに見せた真っ赤に染まる問題集を見て、岩村は呆れたような笑みを浮かべた。基本的にはどの教科もそれなりな点数を取る春日だが、どうも数式にはめっぽう弱い。春日は気だるげな表情を浮かべ、炭酸水のしゅわしゅわと浮かぶ泡をゆっくりと覗き込んだ。


「もう、受験生ってやだねぇ。こんなに頭に詰め込んだら、そのうち死ぬんじゃない」

「俺はお前の神経はそこまで繊細には作られていないと断言できるぞ。だから安心して勉強するといい」

「うわあ。岩村の頭、バスケと勉強のしすぎで筋肉になっちゃった」


ケラケラと楽しそうに笑う春日に、岩村は眩しげに目を細めた。
バスケットボールという青春のすべての捧げた部活が終わってから、春日は以前より笑うことが少なくなった。本当の笑み、と言うのだろうか。普段と変わらぬ様子でクラスメイトと話していても、春日の笑みはどこか翳りを帯びている。バスケをやりたい貪欲さと様々な事に嫌気がさした狡猾な思いが綯い交ぜになって、パステルカラーのパレットに黒や茶色の絵の具をぐっちゃぐちゃに混ぜたようだ。日常生活は勿論だが、勉強をしているときはもっとだ。難しい顔を浮かべて問題集と向き合っている姿など、やはり春日には似合わない。岩村は共に机に向かいながらも、春日とバスケをやりたくてしょうがなかった。


だがその思いは、春日も感じていることだった。バスケから離れてからの岩村には、まるで覇気が感じられない。本人は至って普通だと言うように何食わぬ顔でいるので、なおさら誰も気づくことがないのだ。
授業中に、ぼんやりと外を見ることが多くなった。岩村のまどろみのような目線の先にあるのは大概体育館で、まるで何かに思いを馳せるように右の指をかすかに動かす。動きは毎日様々だが、パスだったり、シュートだったり、ドリブルだったり。先生もわからないような小さな動きで、岩村は窓で遮られた体育館に訴え続けるのだ。春日はその光景を見るたびに、ぎゅうっと胸が締め付けられる。物理的なものではなく、確かに心がずきずきと音を鳴らす。その音を聞くたびに、春日はうんざりとした思いでぎゅっと心臓が痛むのを抑えつけることしかできなかった。


「およ、チョコもある。岩村ってば、どんだけ買ってきたんだよ」


遠慮なくビニール袋の中をごそごそと漁る春日に習って、岩村もビニール袋を覗き込んだ。自身が買ってきたものだが、確かに春日の言うとおり二人で食べる分には量が多い。春日が好きそうなもの、と思って悩んでいるうちにかごの中に入れてしまった様々な種類のチョコレート。ペットボトルの飲み物が2本に袋菓子が3つ。肉まんやフライドポテトから、ガムやキャンディのようなものまである。ここでコンビニ開けるねぇ。春日は可笑しそうに笑って、袋の中から小さなチョコレートを一つ取り出した。


「これ、俺が前一番好きって言ってたやつ。覚えててくれてたの?」


岩村は柔らかく頷くと、また問題集へと目線を戻した。春日は岩村をつまらなそうに横目で見つめると、風が吹けば飛んでいってしまいそうな包装を無造作に開き、すぐに食べはせずにしばらく小さなチョコレートをじっと見つめる。何の変哲もない、小さなチョコレート。炭酸水とチョコレートは、岩村が覚えていてくれた、数少ないものだ。なんだかすぐに食べるのは惜しいような気がして、また包装紙にチョコレートを戻した。少し不格好になってしまったが、春日は満足げに頷くと、炭酸水の横にそれを置いた。


「岩村、バスケやりたい」

「大学受かったらな」

「今すぐバスケやりたい」

「さっき真っ赤に染まる問題集を見せつけられたばかりなんだが」

「いいからバスケやりたい」

「……春日」

「ねえ、バスケ」


言っていることは駄々っ子と変わりないが、春日の目は真剣すぎるからタチが悪い。ジッと見つめられて言葉で捲し上げられると、岩村は言葉が詰まってしまった。岩村はゆっくりと、少し考える素振りを見せたが、何も見なかったこととみなされてまた問題集にシャープペンシルを走らせてしまう。春日が不満げに口を尖らせると、岩村のごつごつとした手が春日の頭を乱雑に撫でた。春日はのろのろとシャープペンシルを手に持つと、か細い声で、ここ教えて、とバツ印を指差す。岩村は勉強を再開した春日に安堵の表情を浮かべながらも、やっぱりバスケをさせてやりたいな、と思うばかりだった。


∴呼吸なんてわからないの






<<




- ナノ -