▽ それは少年だった
──キィ、
そっと、手に力を込める。
そして、ゆっくりとドアをあの時みたいに、2pくらいだけ開けた。すると…
「い…ッッてぇぇ…!!!」
ドアの向こう側からは、男の子の声がした。
どうやら頭を押さえてうずくまって痛がっているようなので、もう6cmくらい開けて隙間から見守っていると、男の子の翡翠の瞳が私を捉えた。
「!ぁ……ええっと…」
『……エレン、くん?』
「ど、どうして俺の名前……」
『それは、まあ君が有名人だから…』
そう言うと、彼は「ゆ、有名人…?」と少し嬉しそうに表情を和らげた。
「あの……ここは、どこですか?確か俺…落とし物探しに行って、崖から落ちて……それから…」
『ここは、日本だよ。』
「に、にほん…?」
聞いたことないぞ…?と首を傾げるエレンくん。
エレン・イェーガー。
彼のことはもちろん知っている。
何しろ物語の主人公だし。
「あの、ここはじゃあ、壁の中じゃないんですか?あと、巨人は……」
『この世界には壁なんてないし、巨人も居ない。でも、私は知ってるよ。壁も巨人も、ずっと見てきた。』
漫画越しに、ね。
「あ、あの……貴女は、誰なんですか?」
振り返った私の胸元で、きらりと右翼が光った。
『私は、ロシェリー・トルド。』
あの時みたいに、そう言った。
すると、彼は暫く私を見つめたまま頬を赤らめて固まっていた。あれ、なんでだろう?
『おーい…エレンくーん…?』
「……ッ!す、すいませんっっ」
『あ、いや…ご、ごめんね!』
悪くないのに謝らせてしまった…。
申し訳ない、と思いながら、彼を屈んでまじまじと見つめてみる。綺麗な整った顔だなあ…。
「あ、あの…ロシェリーさん?」
『!ごめんなさい、つい…』
いけない、失礼なことしちゃった。
それにしても、あっちから来る人はなんでいつも私の家の前に来るんだろう?それは不思議だ。
『……もう遅いし、うちでよければ上がって?』
リヴァイさんも、こうしてうちに来たんだよなあ…。
「じゃ、じゃあお邪魔します!」
エレンくんは緊張したように、そっと玄関に足を踏み入れた。
ー…
「う、うま…っ!!!なんですかこの、美味しい食べ物…!?」
『ああ、それはエビフライだよ。』
「えびふらい…」
エレンくんは、どうやらご飯がまだだったようだし、晩御飯も作ってから時間がそれほど経っていなかったので、悪いけれど残り物を食べてもらうことにした。
『ごめんね、余り物だけど。』
そう言って、私のマグカップにお茶を注いで彼の前に置く。……リヴァイさんのは、なんとなく勝手に使わせたら怒られそうだから私が使おう…。
「いえ、すっごく美味いです!」
きらきらとした瞳でご飯を食べる自分より5つ年下の彼を見つめながら、小さく笑う。また目の前に、誰かがこうして座っている。それだけで、なんだか幸せだった。
私はきっと、リヴァイさんの優しさや、彼が注いでくれる愛情の温もりみたいなものの心地よさを知ってしまった。
今まで一人で過ごしてきたから、
きっと、忘れていた感情。
誰かと過ごすことがとても幸せだと、
改めて感じた。
だから、
寂しかったんだ。リヴァイさんが居なくなってしまって。
愛していたから、
彼の温もりをまた求めて、虚しくて、涙が出たんだ。
「──ロシェリー、さん?」
『ん?』
「なんで、泣いてるんですか…?」
頬を伝う、涙。
知らず知らずのうちに、彼に依存していたのかもしれない。
『ご、ごめんなさい……ちょっと、昨日までそこにいた、好きな人のことを思い出しちゃって…』
「……、すいません…」
『エレンくんはなにも悪くない。だから謝っちゃ駄目。ごめんね?』
少し赤い瞼でえへへと笑うロシェリーさんは、とても痛々しかった。もう聞かない、と心に決めた矢先、ロシェリーさんがぽつりぽつりと話し出す。
『彼はね、貴方と同じように落ちてきたの。あの場所に。』
「え…」
『たった3週間だったけど、彼と居た時間は何よりの宝物なの。』
「……どんな、人だったんですか?」
『そうだなあ…うーん、不器用だけど優しくて、ぶっきらぼうだったけれど、温かい人だった。きっと、エレンくんも知ってる人よ。』
ふふ、と笑うロシェリーさんは綺麗で、でもどこかあどけなさの残る可愛らしい人だった。ジャンあたりがきっと彼女を見たら騒ぐんだろうな、なんて思いながらも、つい見とれてしまった。い、いけないいけない、変な気分になってきた…胸がもやもやする…ッ!!
『あ、エレンくん。お風呂入ってきなよ。追いだきしておいたから。』
着替えもあるし、と付け加える。
勿論それはリヴァイさんのものだけれど、今は仕方ない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます…」
『うん、ごゆっくり。』
はは、と少し申し訳なさそうに笑うエレンくんに着替えを渡し、洗い物に取り掛かる。
「ッ、あの…ロシェリーさん!」
『なあに?』
「その人って…俺の知ってる人なんですよね!?」
『…うん、きっと知ってる。彼は…英雄だもの。』
そう言って胸にかかるネックレスを握り締めて笑った。
「…俺、当てて見せますから…待っててください…!」
『…うん、いいよ。』
お風呂に向かう彼の背中にそう言った。
窓の外の月は、満月。
やけに大きく見える青白い月を見上げながら、そっと笑った。
リヴァイさんとまるで入れ替わりのようにうちに来たエレンくんとの一日目は、そうして終わっていった。
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