ワールドアパート | ナノ









視界がうすく白い膜を張る。
煩いはずの二人の声もどこか遠くから聞こえてくる映画の音声のように耳に鈍く届く。
ぼんやりと、ぼんやりと自分の意識が落ちていく感覚。
昏くて、安穏として、朦朧としているのに何故かひどくクリアーな、
自分の内側の、深く深く、底のほうまで、ゆっくりと降りていく。


























「あれ……しのぶは?」

突然開いたドアはその開かれ方が乱暴だったから、戻ってきたのが彼女ではないことは見る前に分かった。

「コピーを取りに職員室に」
「いつ?」
「五分前」
「そ……」


追いかけるのかと思ったが、予想に反して奴は近くの椅子をひいて腰掛けた。
自分の書類を捲る乾いた音だけが部屋に染みていく。
諸星は両手をスラックスのポケットに突っ込んだままだらしない座り方をしてじっとしている。

同じ二人でもその組み合わせによって空気はがらりと色を変えるようだ。
さぼっていないで仕事をしろ、という軽い小言さえも今は重くて口から出てこない。
ペンを走らせる。妙に響く。いやに手が滑る。……緊張? まさか。


「ラムはさあ、」
不意に諸星が口を開く。それに無様なほど動揺した。指先がペンを取り落とす。
文字の上を無駄な線が一本走って、小さな金属が床にぶつかる。
「――あ…」
落ちた黒いシャープペンは諸星の足先まで転がった。

無言で椅子をひいて立ち上がった諸星はかがんでそれを拾い上げてこちらに歩いてきた。何もできないまま、座ったままでそれを見る。
見下ろしてくる諸星が、黙ったままペンを差し出した。

(怖い? ――――まさか)                               


「……悪いな」
指に触れないように手を伸ばす。
近い、と思う。
唾を飲む。
上手な呼吸の仕方を忘れてしまう。
自分を見る諸星の目を直視できず、手元に視点を落とす。

「ラムは、俺のことが好きなんだよ」

聞こえる人間など自分以外いないのに。
囁くような低い声は二人だけの体温で頬を掠めた。
体の芯が頭から凍るように熱くなる、一瞬。
動けない自分を見下ろす視線を、産毛の一本まで肌が感じ取る。
……逃げられない、だって、
だって、動けないのだ……
                                   
「……知っている、そんなこと」
「知ってても、諦めきれないって?」
「あきらめ……」

明確な答えが出ずに言葉は途切れた。
諦めきれないのだろうか、自分は、ここまで強く見せつけられてもまだ。諸星の右手が机について書類が小さく音をたてて擦れた。その手を奇妙な歯がゆさと落ち着きのなさで見る。分かっていても諦めきれないのだろうか、自分は、
「そんな好きなんだ、ふーん」
猫毛の前髪が額を撫でた。心臓が跳ねる。
「何……っ」
「ラムのキス、やろーか」
かさついた指先の感触が頬を包んだ。自分の皮膚が何倍にも厚くなったようにその温度さえうまくはかれない。
何を言ってる、と唇を動かす司令が脳に回らない。
当然逃げられない、
動けない、止まってほしいと思う、
(ばかばかしい)、わざわざ考えなくても明白じゃないか、そうでなければこんな瞬間に、動揺なんてしないのに。
麻酔が効いていくように薄くなる意識に、息の熱さが混じって、視界が朱に染まる。遠い街からの音のように、紙が皺を寄せる音が耳を素通りした。
誰もこないでくれと、後生だからと、願うことなどしないのに――――










































「あたるくん! 戻ってたのね」

扉を開けたまま書類の束をもって、彼女は座った諸星の前を横切る。

「はい、面堂くん、これ終わった分のコピー」
「ありがとうございます、しのぶさん」                                                      
彼女は「いいのよこんなの」、と笑ってから
「あたるくんもちゃんとお仕事しなさいよ!」
と後ろを振り返った。 

「――って、なんだ、やってるじゃない」

いつのまにか諸星の机の上には書類の薄い束が載っている。
どうやらさっき気付かないうちにこの山からすこし持っていっていたらしい。

「あたるくんが言われなくても仕事するなんて、珍しいこともあるのね」                                       
同意を求めるようにこっちを向いたから、

「雨でも降るかも知れませんね」

といつものように揶揄した。

「うるせー、こら面堂、しのぶに近づくなこら」
「僕が近づいてるんじゃない、しのぶさんが僕と話すために近くにいるのだっ」
「なあに言ってんだタコ。しのぶ、いいからこっち来なさい、ほらほら」
「あんたねえ、いい加減懲りなさいよ……またラムが来るわよ」

噂をすれば影というべきか、丁度そのときラムさんが帰ってきた。

「ダーリン、こんなところにいたっちゃね!」
「わ、ラム」
「……うちの愛の制裁、骨の随まで味わうっちゃ!!!!」
「ま待て、ラム、話せば分か……」


逃げ回る諸星をラムさんが四方八方に電撃を飛ばしながら追いかけ始める。隣にいたしのぶさんが自分を見ている。全く呆れますね、という目をして腕を組む。
そしてそっと、部外者になるのだ。
































下唇を噛むように触れられた途端、馬鹿らしいほど手に力が入らなくなった。
荒い呼吸がどちらのものか判別ができなかった。乱暴なのか優しい愛撫なのか分からない気まぐれの仕方で、唾液が口角から落ちていくのを感じながら、飲み込まれるように脳漿が混濁した。ざらつくぬるい舌が緩慢に中を動き回る、触れ合う摩擦がいいようもなくなぜだか意識を麻痺させて、震えが脊椎を降りていく。いつの間にかすっかり上を向かされた顎を下った手が、肩に食い込みそうなくらい掴まれて痛いと思ったところで、唇が離れた。

「……ど? ラムとキスした気になった?」

まだ触れそうで触れない唇の距離で諸星が囁いた。声が冷たくも巫山戯てもいなくて、逆に気が動転する。麻痺していた体が突然に身震いした。トリガーが分からない、官能の正体を持て余す。何か言おうとしたのに、息ができなくて喘ぐような、苦しい呼吸をする稚児のような声が出た。

「動揺しすぎ、お前」
「……なっ…、」

辛うじて乾いた喉から声を出したら、途端に涙腺が緩みそうになる。押し返そうとしていたはずの手がいつのまにか黒い制服の袖をしがみつくように握っていることに気がついて突き放すように体を離した。
「…どこまで…馬鹿にする気だ…っ」
少しよろめいた諸星が、
「ただの悪ふざけじゃん、いいイヤガラセだろ」
変な笑い方をして肩に手を置いた。(教室のすぐ脇を歩く足音が微かに聞こえた。)
――――動揺しすぎだ、ばか。
どこか本気のような声で耳元に言い残されたのとほぼ同時に、教室の扉が開かれた。



















彼女に追いかけられるのを鬱陶しがりながら、おそらく彼女の望み通りに文句を飛ばして逃げ回っている。開けていて、愉快で、それでいてひどく不自然な光景だ。まるでエンターテインメントのような。茶の間でブラウン管のなかのアニメーションを見ている錯覚に陥る。そこに密接な閉じた関係があることを、その外壁だけ見せつけるかのような、健全な茶番劇を無自覚に演じている二人。

二人のあいだには何者も入れない――――いや、彼が彼女を選んでいる限り、彼女ただ一人以外、彼の中に入ることはできない。それは確かめられるように毎日いやというほど思い知らされてきたことだ。諦めて部外者になった自分は、口を閉ざして観察者になる。覗きたくないという抵抗さえも諦めて、模糊とした意識のまま自分のなかにそっと落ちていく。気づかれたくない奥底にいる自分にとっては、その冷えた正気はまるで悪魔のようだ。見つからないようにと何重にも包まれて隠れているのに、はじめからそこにいることを知っているようにまっすぐにそこまで降りてくる。当たり前だ。自分の目が追う対象がすり替わっていたことなんてもうずっと前から気づいているのだから。
もうずっと前から。
もっとも、本当はその感情の存在こそがこころに巣くう悪魔でしかないのだけれど。
(消えるまで待つというのは、なんとも逆説的だ。どこにも存在しなくなるまで、どこかに残っていないかとゆっくりと深くまで降りてその存在を探して、しらみつぶしに一つずつ、自分の逃げ道を消していく……)










まだ指先が震えそうだ。いやでも思い出す、意識を飛ばされる恍惚感。ねっとりともたつくように、吐いた息がまだこのあたりに残っている気がする。屈辱なのか憎悪なのかなんなのか、分からないほど目の前が熱くなる。
熱い息が自分と触れた瞬間の呼吸を思い出す。触れそうで触れない唇の余韻を、息遣いを、耳元に残る吐息の温度を。心臓が熱くなって壊れそうなほど早鐘を打つ。内側から出してくれと叩くように。

向こうにとってはどうでも良いことなのだ。それほどに憎まれて軽視されていることを何度思い知っても、諦めきれない。どうしたって、普段隠しきったあの情熱が自分に向けられるならと望むことを止められない。冷たさに触れる度に、隠している熱に触れたくなる。いっそのこと、残酷な軽薄さで嘲って嘲って笑ってくれればいいのに。そうすればまた、あんな気まぐれな一瞬の激しい疼きを墓標のように愛でる必要もなくなったのに。いますぐ理性を捨てて溺れたくなるくらい、激しく脳髄を麻痺させる体の記憶。
制服を着て、席について、真面目を装って、馬鹿に付き合っていれば、同じ毎日が出来上がるのだから、奥深くに隠しきりながら静かに諦めないでいるしかない。
他に仕方がない。逃げ道を自分で、消してしまったのだから。

諦めきれない。どうしたって、諦めきれない。



























































































































「……寝てんの?」




教室の扉を開けたあたるが、返答がこないのを確認してから教室の電気を落とした。
(ラムはまだどっかうろうろしてんだろ、しのぶは……またコピーか)
今の状況をあたるは冷静に分析しながら男の机の前まで歩いた。そういや授業が終わってすぐ、なにやら寝不足だというようなことをしのぶに零していたな。生真面目な男が書類の上に居眠りしている珍妙な光景にも納得のいく理をつけた。

電気を消しても光は採取できる。学校の教室の昼間だ。
眠る男のすぐ前に立った。
音という音が消えてしまったかのように静かだった。
髪に触れる。意外と柔らかい、しなやかな黒い短い髪。つまむように滑らすと、すぐに落ちる。
……まだ気が付かない。
寝てるふりでもしているのだろうか――――いや、まさか。
もしそうならすぐにでも飛び上がって噛み付いてくるだろう。
あの時、冗談に託けたのに、心底動揺して瞳を潤ませた人間だ。
よほど好きなんだろうな。
誰のことも好きで誰のことも好きでなさそうなこの男が、そうまで好きだというのなら、なにか奇妙だとも思う。なんでそれは彼女なのか、という点において。
思わず笑いそうになる。いや、泣くべきなんだろうか?
(なんて分かりやすい嫉妬なんだろう。)

欲しいものがないといったら、嘘をつけ、と言われるだろうか。
カーテンが揺れて、隙間から入った光が、寝ている手がゆるく握ったままのボールペンの金のクリップに反射した。
たやすく触れられる距離で、いとおしさに息を止めたくなる。

「そろそろ気付くだろ……普通」

欲しいんじゃない、ただ、存在にこころが屈服しているだけだ。
明日も明後日もその先も同じ時間が続くためなら、自分はいつまでも黙っている自信がある。平穏はえてして作られるものだ。明日も明後日もその先も、欲しいものはない。同じ時間を繰り返せばいい。永遠に負け続ける覚悟なら、最初から出来ているのに。

白い指を見る。
天地がひっくり返っても、なんて、現実味のない喩えを、することもない。
欲しいものがないのだ、伝わって欲しいと、ちっとも思わないのに、どうしていつまでも、ひとりしか見えないんだろう。根拠もなく自分の心の向くさきがただひとつだと知っている。言葉にするまでもなく、触れるまでもなく。







(戯れにでも、知られることがなくても、近付きたいと思うのを止められない悪魔のような引力を、本当のことがどれだけ磨り減っても決して姿を見られないくらい奥深くに潜っているくせになんで気付かないんだと詰りたくなる痛々しい矛盾を、どうして残酷なほど甘い名前で呼ぶのだろう、人は?)








    







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