大学以外で会うのは久しぶりだった。会うといっても、俺が一方的に見ていただけでしかない。
顔を見て一対一で話すことなんて、軽い挨拶以外ではしばらくしていない。
少し前まで隣にいたはず、いやもっと前からいなくなっていたかもしれないなと、なんともいえないわだかまりが腹の辺りに溜まっている。
あっという間に離れていって、今ではこんなにも遠くなった存在がとてもなつかしいというか、ひきつけられるというのか。
段々と広がって出来ていた溝は、視線が重なったことさえないものにされるほど深くなっているというのに、まだ俺は情けなく過去にすがっているのだろう。
喧しくて明るくて、むっとする煙草やら酒やらの匂いでいっぱいの場所はおまえには似合わない、と思う。
初めて、こんなところにお前が来ると知ったからだろうか。…本当は、騒がしいのが好きなお前にはぴったりの場所なのかもしれない。よくわからない。
向こうに関わる気がないならそれでいいだろうと割り切ろうとしたこともあるが、それができずにここまできた。なにが原因だったのか、なにがそうさせたのか、今の俺では見当もつかない。
しかし、隣の騒がしい集団から聞こえてくる恋愛相談をする声がおまえだとわかってしまう程度には、俺はまだおまえを求めている、のだろうか。
「で?おまえはその愛しの人になんて言えばいいのかな?」
「すきです。」
「分かってんならさっさと砕けてこい!ちゃんと慰めてやるから!」
酒に酔っているのかそうでないのか、分かりづらい苗字の声が聞こえて、それを拾おうと耳をすましたところで野太い激励の言葉が邪魔をしてくる。
向かいの太刀川が呼んできたのも雑音にしか聞こえなくて、思わず低い声で黙れと言ってしまう。
声が入り混じって騒がしい。聞き分けられない。
「二宮なんでそんな機嫌悪いんだよ。」
「悪くない。」
「悪いだろ。隣がうるさいから?」
今、おまえに構っている暇がないだけだから気にするな、といったところでこいつが理解するわけもないだろうし、隣が段々と静まっていくからそっちに意識を集中させるのが優先だった。
「てかいつから好きなん?幼馴染みなんだろ?」
「わかんね。…でも長い、と思う。」
そんな話を俺は一度も聞いたことがない。
黙っていたのか、それとも気づいていなかったのか、どちらも可能性はあるが、後者であってくれと少しでも願う自分がいることに俺は気づいていた。
どこの大学だとかいつからだとか芸能人ならだれに似てるかとか、質問は嵐のように苗字に向かっていくのが聞こえてくる。
そのせいか、顔に力が入っていたらしい。太刀川が顔怖いぞとからかいの声をかけてきた。
苗字の声は、それらの一つにも答えていない。
目の前の太刀川はにやにやと嫌な笑みを顔に浮かべると、その顔のまま俺の後ろを指差した。
「そういや、あっちに苗字いるよな。」
「は?」
「あんまりこういうとこ好きじゃないのに。」
めずらしい。そう口にした太刀川に対して、どうしておまえはと喉まで出かかった言葉を、冷たいグラスで口を塞ぐことによって抑える。
ふと脳裏をよぎる。俺と関わらなくなっただけで、太刀川とは交流があったのかと。
思い切り顔をしかめてしまいそうな俺の心中を知らずして苗字は弱いよなあと笑う太刀川に、俺はとてつもなく苦い気持ちになる。
「さあな。」
「あれ、仲良かったろ?」
「もう話もしない。」
「ふーん…。」
そう答えるのがやっとだった。
本当に、どうしてこんなことになったのか。
俺がこんなふうに悩んでみたところで、苗字には少しも伝わらないし、変わらない。
目の前の男は先ほどふぅんと奇妙な返事をしたきり黙っていた。のだが、ふと口を開いた。
「なあ、」
その時、太刀川の声に重なって着信音が鳴り響く。
俺のものだ。こんな時間に、誰が何の用なのか。
「あ、出たらいいぞ。」
「悪い、」
ディスプレイに映しだされた文字が飛び込んできた瞬間、俺は訳が分からなくなった。
鳴り響くスマホを見つめたままの俺を見兼ねてか、なんだなんだと太刀川が身を乗り出してくる。
俺だって訊きたい。なんで、苗字からなんだ。
後ろが騒がしくなる。声が聞こえる。
「日を改めよう、なんで今なんだ!」
「いや、なんか、今じゃないとダメな気がして。」
「もうかけてるぞこいつ!」
その会話を聞くや否や、太刀川は親指を立ててグッドサインを寄越してきた。なんだおまえは。
「出ろ、はやく出ろ。」
「ま、ちがいだったら、どうするんだ。」
「なわけねえって、ほらはやく!」
通話ボタンに触れた指が小刻みに震えていた。
どうせ会話は聞こえるのだから、耳に当てるつもりはなかった。というか、当てられなかった。
「おい繋がったんじゃね、」
「え?あれ…に、のみや?聞こえる?」
向こうは、ついたて一枚挟んだ隣に俺がいることに気づいていないらしい。それもなんとなく面白くなくて、返事がそっけなくないものになるのが分かった。
「…ああ。」
「、二宮だ。」
ついたて越しに、男じゃないかと困惑する声がした。
「…それがどうした。」
「久しぶりだから。」
「そうだな。それで?何か用か。」
がつん、と脛に激痛が走る。
思わず声を出しそうになって、目の前の男を思い切り睨みつけた。
しかし目の前の男は悪びれもなく自分のスマホに文字を打つと、ぐっとそれを目の前に出してきた。
優しくしてやれ
何が言いたいんだ、と顔をしかめているとスピーカーと隣から少しだけ小さくなった声が聞こえてくる。
「あの、な。…あー、その…。」
「、言いたいことがあるならはっきり言え。」
「ぁ、ごめん、忙しいなら切っても、」
「ちゃんと聞いてる。」
苗字がゆっくりと息を吐く。俺も、緊張しているのか手のひらがじとりと濡れてきていて、強く握りしめる。
「…俺、おまえのこと好きなんだ。」
おまえのこと、すきなんだ。
その意味を噛み砕きて終わる前に、苗字の言葉は止まることなく続く。
「ずっと好きだった、今も好きだ。でも二宮はそんな気なかったろ、友達だったろ、俺。」
今までごめんと、苗字は消えそうな声で謝った。
「なんでも出来るやつだって尊敬してたのがだんだん変わってきて、おまえがボーダーに入ったときも本当に誇らしかったのに、なんかすげえ遠いなって感じるようになったらもうだめだった。」
苗字の言葉は支離滅裂で、ただでさえうまく働かない頭ではそれを整理するのも間に合わない。
それでも、きちんとその一つ一つに、今まで苗字が抱えていた気持ちが全部詰まっていると思えた。
思考が追いついてくる。…俺も苗字も、まだまだ幼稚だったのだと、ようやっと理解する。
「離れたほうがいいと思ったのに、俺、結局こんなこと言って、困らせて、ごめん。」
でも好きです、ごめんなさい。何度目の謝罪だろう。
ついたての向こう側は静まり返っていて、太刀川もなにも言わなかった。
俺はもうなんというか、喜びなのか呆れなのかよく分からない感情が渦を巻いていて、正直ついたてを蹴破ってやりたくて仕方ない。
「おまえはどうしたいんだ。」
「うぇ、どうって、どうってなに、ええ?」
自分が告白したくせに、苗字は混乱しているらしい。
俺は一度息を吸って、椅子から立った。
太刀川はお幸せになんて言いながら笑ってやがる。
「俺が好きか。」
「えっ、あ、は…い!」
「冗談じゃないだろうな。」
「はい!」
「俺と付き合いたいんだな?」
「はい!…えっ?」
やっと俺の声がスピーカーから聞こえているわけじゃないと気付いたらしい。
こっちを振り返った苗字の顔は馬鹿みたいに呆然としていて、懐かしいと思う。
「に、二宮、いつから、」
「ずっとだ馬鹿。」
その一瞬で苗字が真っ赤になった理由は、酔いではないというのは分かりきったことだろう。
わだかまりがやっと溶けたのだ。幾分かすっきりとした思考で、この馬鹿をどうやって最良の着地点までうまく転がしてやるか、じっくり考えることにする。
20151221
20151228