思わず、見惚れた。
 彼女は、舞台の上で優美に舞い、透き通る歌声で、会場中を魅了していた。彼女の長い髪がふわりと揺れるたび、色白の首筋が露わになる。扇情的なその舞台に、周囲のことなど忘れ、ぼくは夢中になった。


 ざわめく店内。紫苑はその隅っこで烏龍茶をちびちびと飲んでいた。むせ返るほどのアルコールの強い臭いと、視界を遮る煙草の煙。紫苑はなぜか演劇サークルの打ち上げで居酒屋に来ていた。
「おい紫苑、大丈夫か? なんか顔色悪いぞ」
「ごめんイヌカシ、心配かけて。大丈夫だから」
「そうか?」
 にこりと笑うと、イヌカシは心配そうな顔をしながらも、仲間の輪の中に戻っていった。その細い後ろ姿を見て、何度目かわからないため息を吐く。
 なぜぼくは、ここにいるのだろうか。紫苑は烏龍茶の入ったグラスを置き、汗をかいたその外側を指でなぞって水滴で遊んだ。話せる人はイヌカシしかいない。なぜなら、紫苑は演劇サークルに所属していないからだ。

 学祭のステージのトリを飾った演劇サークルの舞台を、紫苑はイヌカシに誘われて見に行った。講堂の中は人がひしめき合っていて、なぜか男性が多い。なんだろうと周りの会話に聞き耳を立てていると、どうやら主役がものすごくかわいいらしいということがわかった。
 演目は灰かぶり。劇はナレーションから始まった。ゆったりとした語り口調のナレーションが終わると、暗い舞台の中央にスポットライトが当たる。紫苑を誘ったイヌカシは、役者としての出演はなく、裏方で照明を担当していた。あの小さな体で大きなライトを動かしているのだと思うと、紫苑はなんだかくすぐったくなって小さく笑った。
 イヌカシは大学の後輩で、紫苑の母親のやっているパン屋の常連だ。一週間に一度、フランスパンを買っていく。紫苑の母親――火藍の焼くパンにご執心らしく、火藍もイヌカシを娘のようにかわいがっている。嬉しそうにパンを頬張るイヌカシを思い出して、顔が綻ぶのを感じた。
「ああ、主よ。孤独な私はどうすればいいのでしょう」
 声が響いて、はっ、と意識が引き戻された。
 美しい、と思った。ライトに反射して、色白の肌がきらめく。釘づけになった。凛として艶っぽい声が、紫苑の奥底に眠る凶暴な欲を刺激した。一目惚れだ。自分でそう、わかった。
 劇はミュージカル形式で、歌と踊りが多く取り入れられていた。灰かぶり役の彼女はどちらもとても上手かった。他の学生ももちろん上手いのだが、彼女が格段に上手かった。
「やっぱりイヴは違うな」
「早く席取っておいてよかった。ギリギリの時間に来た奴は、きっと扉の外でハンカチをくわえて悔しがっているだろうよ」
 後ろの男子学生がひそひそと話している内容が耳に入ってきて、灰かぶり役がイヴという名前であることがわかった。そして、イヴのファンがとても多いことも。
(こんなに美しいんだ。そりゃそうだよな……)
 紫苑は劇に見惚れながら、頭の片隅でそんなふうに思った。
 劇が終わったあとも、紫苑は立ち上がることができなかった。ただぼんやりと、舞台の上で舞っていた彼女に想いを馳せた。イヴという名前しかわからない。それでもいいと思った。
「紫苑!」
 よく知った声。その声で、紫苑はようやく頭が覚醒した。
「イヌカシ……」
「見に来てくれたんだな。どうだった? 面白かったか?」
 面白かった、というのとは違う気がした。ただ自分は、イヴを見つめていただけだ。だがそれを正直に言うのはあまりいいことではないのはわかっていたので、にこりと笑いながら面白かったよ、と言った。
「あのさ、紫苑。おれこれから打ち上げ行くんだよ。よければ一緒に行かないか?」
「え? 打ち上げ? ぼくサークルメンバーじゃないけど」
 突然の誘いに、紫苑は目を丸くした。
「頼むよ、紫苑。実は紫苑と話がしたいってやつがいてさ。連れてこいって言われてるんだよ。頼む!」
「……だ、誰その……ぼくと話がしたいって言ってる人って」
「ネズミっていういけ好かないやつさ……とにかく、飯代はそいつが全額支払うって言ってるから、タダ飯食うためだけでも、頼む!」
 紫苑の家庭は、裕福とか言い難い家計状況だった。パン屋は繁盛していたが、大学の学費が高額のため、外食などはなし、紫苑は飲み会にもほとんど出席せずに昼は弁当ぞ持参した。なので、一食分浮くのはありがたいことだった。
「そういうことなら……」

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -