ろぐ | ナノ






「行かないでよ、刹那」



夏の、蝉がわんわんとざわめきあう音が私の全身を麻痺させるようで、私は手足の一本も動かすことか出来ない。片手に持っていた棒のソーダアイスがどろりと滴れて、サンダルを履いている私の爪先に当たった。足が冷たい、と感じたのは一瞬で、そんなことよりも今私は心の中心から冷えるような寒さを味わっている。



「駄目だ。俺は行かなくてはならない」



さっきから何度も繰り返し言われた言葉に、私は何度も同じ言葉を繰り返す。夏の風物詩の蝉の声が背景に溶け込んで私の双耳は彼だけを定めた。彼の瞳は、もう揺らぐことなど無いとでも言うように私の瞳をしっかり見据えている。そんな淘汰された双眸に、私は目を背けることが出来なかった。



「なんで、今」



どうしてもっと早くに、なんてことは私が本当に聞きたいことじゃない。けれど口から紡がれるのは彼を引き止めたい一心で出る言葉だけ。



「今から、の話じゃない。これは俺の…俺たちの為だ」
「意味、わかんないよ」
「それでいいんだ、なまえは」



寂しそうに、嬉しそうに刹那は微笑んだ。まるでもう会えないかとでも言いたげに、と感じた自分が急に怖くなった。刹那はいるじゃない。目の前に。どうして私、こんなに震えてるの。



「すぐに、帰ってくる、よね」



当たり前だ。お前はいつも心配してばかりだな−−そんな言葉を期待して、今すぐ崩れ落ちそうな心を抑え付けて聞いたのに、刹那はいつものように微笑んではくれなかった。涙を代弁するように、冷や汗が私の頬を伝う。すると蝉が一層騒ぎ始めて、私はそれを振り払うように自分の手を力強く握った。やめて。やめてよ。刹那の声が聞こえない。刹那を消さないでよ。お願い。



「好きだったんだ」



やっと刹那の声が聞こえたと思って、瞑った眼を開いた時には刹那はもう居なかった。



刹那の声を聞こえなくしてたのはもしかしたら自分自身だったのかもしれない、と私が気付いたのは涙が流れ続けて七日目の、あの時からずっと全身で愛を叫んでいた蝉達がみんな消えてしまったあとの事だった。




反芻する蝉の声