今はもうすっかり散ってしまった薄紅の花。彼女が好きだと言っていたその花の模様の施された櫛を偶然町で見かけたのはひと月ほど前の事。
度重なる実習のせいで彼女の居る屋敷を訪れた時には季節は変わろうとしていたが、胸にはあの櫛を忍ばせていた。
「千紗」
ただ一言、名を呼ぶ声にほんの少しの緊張が混じる。
私にもまだこんな感情が残っていたのか。
懐かしさよりも驚きの方が大きかった。忍として生きると決めてからは大抵の事には動じなくなったと思っていたのに、修行が足りぬ証拠だろうか。それとも、こんなふうに誰かを想うなんて久しくなかったからだろうか。
流石に千紗にまで動揺する心中を悟られてしまうのは格好が悪い。一呼吸おいて目的のものをすっと懐から出す。思わず呟かれた綺麗、という言葉がただ嬉しかった。
しかし彼女は一言呟いたまま動かず櫛を受け取ろうとはしない。
「気に入らなかったか」
「いいえ、とても素敵」
「では、何故受け取らない」
言葉とは裏腹に彼女の沈んだ顔がただただ不思議で仕方なかった。
私の知る女というものは櫛や簪、装飾品を贈られれば大概機嫌を良くするもので、今までそれを拒む者などいなかった。余程趣味が合わなかったのだろうか。
「こんな綺麗なもの、私には勿体ないです」
彼女がか細い声で伝えた理由は私の予想に反するものだった。
「もう春は終わろうとしてるのに、私は冬からずっとこの家の外には一度も出てないんですもの」
彼女は生れつき身体が弱かったらしい。
幼い時から殆どの時間をこの屋敷の中で過ごしたのだと聞かされたのは出会って間もない頃。特に凍てつく冬の寒さは彼女のか弱い身体には負担が大きく、外に出る事はおろか布団から起き上がる事もままならなくなるのだ。
冬を越え弱々しかった笑顔も徐々に元の明るさを取り戻しつつあったが、春になっても一度も外に出ていないのなら体調はまだ回復しきってはいないのだろう。
「何処にも行けない、誰にも会えない。それなのに着飾っても仕方がないですから」
どうかもっと相応しい人の元にと私を真っ直ぐに見つめる瞳には愁いも迷いもなく、おそらくそれは彼女の本心から出た言葉。私がどんなに努力しても理解しえない彼女の苦しみ。手を伸ばしても届かないその場所に酷く胸が掻き乱される。
何故、彼女なのだろう。
何故、彼女はこの広い屋敷の小さな部屋の中で外を眺めることしか赦されないのだろう。
彼女には広い世界が似合うのに、もっと自由で華やかな景色が。
「お前はいつも自分を卑下するな」
「そんなつもりは……」
「いいや、しているさ。相応しくないなんて誰も思わない、お前がそう決め付けているだけだ。それに、」
思い通りに進まないやり取りについ苛立って荒げた声にはっとする。私の言葉に俯きかけた顔は怯えていて。これ以上怖がらせぬようそっと、私の言葉に俯きかけた顔に手を伸ばした。
隠さないでくれ、私はお前のどんな表情もこの目に焼き付けたいのだから。
口にはしない想いの代わりに片手で頬に触れ彼女にぐっと近寄る。
「私が居るだろう」
「えっ……」
困惑の声と共に見上げた顔と視線がぶつかる。
ああ、やはり。
「着飾る相手だ」
僅かでも動く度、私の手に触れる細くしなやかな髪にこの櫛はよく似合うだろう。私の見立てに間違いはない。
「私はお前に会いにここへ来ているのだから。それとも私では相手に不足か?」
「い、いいえ。とんでもない」
彼女は私の問いに慌てて否定を示す。その頬が若干の赤みを帯びているように見えたのは私の都合のいい錯覚だろうか。
「いつかお前が外に出られるようになったなら私と共に町へ出よう。他人に向けて着飾る、それならお前も満足だろう」
「いいんですか?」
自分で言い出しておきながら着飾らずとも十分に美しい彼女を人前に晒すのは正直気乗りしない。屋敷に篭っていることを不憫に思ってはいたが、心の何処かで安心していたのだ。外に出なければ私以外に彼女に近付く男はいない、と。
できることなら私の前だけで微笑んでいて欲しいものだが、目を輝かせて喜ぶ彼女を見てしまってはそんな思考も消さざるを得ない。
「ああ、勿論。その時の為にも、受け取ってくれるな?」
もう一度、最後の期待を込めて差し出すと小さな櫛は彼女の手の中へ渡った。
「忘れないでくださいね」
受け取った櫛を大事そうに握り締めながら彼女がぽつりと呟いた。
「町へ一緒に出る、って。約束ですから」
「勿論だ」
忘れるわけがない。その日が来るのを一番待ち侘びているのは私なのだから。
それまではこうしてお前に似合うものを贈ろう。この殺風景な景色をお前に見合う美しいもので埋めて、お前の知らない世界の話をしよう。
そしてどうか私の隣で笑っていてくれ。お前が嬉しいと言ってくれれば、それだけでこの心は満たされるのだから。
君に似合う華を一輪
(不確かなものに縋り付くように、幸福を夢見て)