カウンターに置かれたグラスの淵をそっと指先でなぞる。まだ一度も口をつけていないそれは少しずつ室内の温度と融和していた。
グラスを持ち上げ、目線を合わせる。その僅かな振動に透き通る琥珀色の中に浮かぶ小さな気泡は、ひとつ、またひとつと水面へと上り消えていった。なんて儚い世界だろうか。儚くも、美しい。
「お前、飲まねェのかよい」
様子を窺うように、マルコは視線だけを寄越す。誘った側からするとこの態度は少々不満だったらしい。千紗をここまで連れてきた張本人は既に二杯目に口をつけていた。
「飲みますよ。飲みます」
ただ、綺麗なものをもう少し見ていたかっただけ。
マルコの誘いに乗ったのは、別に奢るという言葉に釣られたわけじゃない。何を思って声をかけたのか知りたかった。単なる気まぐれなら、それでもいい。ただ一緒にいる時間ができるなら、それで。てっきり誰かしら他に連れているだろうと思っていたから、二人きりだということも店に入るまで信じられなかったけれど。
「他に誘う相手いなかったんですか」
「お前じゃ悪いってのか」
マルコは少々不機嫌そうに声を落とした。
「隊長がいいなら、私は構いませんけど……」
この距離を許されていると、期待してしまいそうになる。他の誰も近付かなければいい、触れなければいいと、願ってしまう。そんな独りよがりな自分が嫌になる。
いっそ、消えてしまえばいいのに。泡のように、儚く。
現実はそうも綺麗には行かなくて。今だって、いつもより口数の少ない横顔も、アルコールを飲み干す喉元や長く骨張った指も、視界に入る度この胸はどうしようもなく締め付けられるのだから。
指先にひとすじの滴が落ちる。汗ばんだグラスから流れたそれは、まるで涙のようだった。
「なんて面してんだよい」
えっ、と声を上げマルコを見ると深い溜め息が返ってきた。
「嫌なこと考えるくらいなら、飲んで忘れちまいな。まあ、おれといることが嫌ならどうしようもねェが」
そんなこと思ってもいないと慌てて否定しようとすると、マルコは喉を鳴らして笑っていた。からかわれたのだとわかるまで数秒かかった。
この人は時々ずるい人になる。何の気なしに近付いてきたかと思えば、経験も考えも何もかもが上を行くことを見せつけられる。その度に思い通りに動いてしまう自分がひどく子供に思えるのだ。
「……嫌じゃ、ないです」
「だったら問題ねェな」
マルコはにやりと口許を吊り上げこちらを覗き込む。目のやり場を探すけれど、その瞳に見惚れてしまう。張り詰めていた緊張の糸は、いつの間にか彼の手によって解かれていたようだった。
手の中に抱えていたグラスに口をつける。すっかり温くなって風味も変わってしまったけれど、口の中に広がる甘さと炭酸の弾け跳ぶ感触はまだ残っていた。
「ねえ、マルコ隊長」
少し熱っぽくなった唇でその名前を呼ぶ。
たかが一杯で彼の言うように何もかも忘れられるわけはない。ただ、少しだけ考えることがどうでもよくなる自分がいた。
「なんだ?」
「もし、私が酔っ払っても置いて行かないでくださいね」
せめて今だけは離さないでくれと。懇願するような目で彼を見た。
「馬鹿。そう簡単に解放してやるかよい」
折角連れ出したってのに。囁かれたその言葉の裏にまた、特別なものを期待してしまう。
昇華されることなく沈澱していくこの想いを、この人はどこまで知っているのだろう。疑問が増える度、感情はまた募る。
Apricot Fizz
(本当は振り向いてほしい、弾けて消えるその前に)