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 船は、静かに夜の波間を泳いでいた。
 陸上だろうが海上だろうが、所構わず賑やかな彼等も眠る時が近付けば自然と静まり返る。時折微かに物音がするのは、まだそれに抗って自分の時間を手放すまいとしている人間がいるからだろう。

 手入れを終えた最後の一本を他の包丁達と同じ場所へ戻すとサンジは軽く息を吐き、整備の行き届いたキッチンを眺める。自らが腕を奮うに欠かせないその道具を丁寧に扱うことは忘れない。一日の役目を終えたその場所に佇み、無言でお互いを労う。そうしてようやくサンジの一日も終息へと向かうのだった。

「さて、」

 小声で呟くとサンジは指先でキッチンの明かりを落とす。本来ならば後は眠るだけだが、その前に――と、ある場所へと向かった。


 静かな廊下に響く自身の靴音を聞きながら、彼は淡々と歩を進める。行く先は彼女のお気に入り、大きな水槽のある部屋まで。
 既に部屋全体を照らす明かりは消えていたが、水槽へと向けられた小さなライトのおかげで充分な視界が確保されている。サンジが軽く辺りを見回すとそれはすぐに目に入った。

 水槽の下に続くソファに横たわる華奢な体。浅い寝息に唇は微かに揺れていた。
 眠る彼女をここで見るのはもう何度目か。好きな場所にいたい気持ちはわかるが、一番無防備になる瞬間まで身を預けてしまうのは如何なものかと思う。それでも、咎められないのはこの場所がお気に入りだと語る彼女の顔が脳裏にチラつくからかもしれない。

「――千紗ちゃん」

 その名を呼ぶと、サンジは無意識に伸ばしていた手に気付く。考えたところで辿り着くのは情けない結論でしかなくて。行き場のないその掌は何も掴むことなく、引き戻されるだけだった。

 穏やかな寝姿を見ているとできることならこのまま眠りから覚ますことなく本来いるべき場所まで運んでやりたいものだが、既に二人の女性が眠っているであろう部屋に立ち入るわけにもいかない。サンジが来たことも知らず未だ夢の中の千紗を見ると悩ましげに目を伏せた。
 毎度毎度、よく困らせてくれる。同時に、それを悪くないと思える自分がいることにもサンジは気付いていた。

 片膝を突きソファへ顔を寄せて、そっと繰り返す彼女の名前。緩やかに息を吐くように紡がれたその声に千紗の肩が微かに揺れた。

「サン、ジ、くん……?」
「こんなところで寝てると風邪引くぜ」

 まだ意識が覚醒しきっていないのか、返事は言葉にすらなっていない。体を起こして眠り目を擦る仕種は愛らしい子猫のようでもあった。

「千紗ちゃんは本当にここが気に入ってるんだな」
「うん。海の中、覗いてるみたいで――」

 小さな唇が紡ぐ二文字に目を奪われる。誰に宛てたわけでもないそれに僅かな悔しさが込み上げるのは余裕のない証拠だろうか。まるで器量の狭い男のようだと心の中で吐き捨てた。その上、何も知らない彼女には平然と笑ってみせるのだから余計に質が悪い。


「おれが話し込んじゃ意味ねェな。レディーをいつまでも夜更かしさせちゃいけない」

 サンジは立ち上がりソファから一歩身を引くと、朝までの短い別れを切り出した。

 そのまま立ち去ろうと背を向けたサンジを弱い力が引き留める。思わず振り返り正体を確かめるとそれは黒いスーツの裾を掴む千紗の手だった。柔らかく触れる指は白く華奢で、ほんの少しでも動けば今にも解けてしまいそうなほど頼りない。それでも、サンジは何かを伝えようとする千紗の前から離れなかった。否、離れられなかったと言う方が正しいか。

「好き、だよ」

今度は自分の方へと向けられたその言葉にサンジは目を見張る。他の全てが消えてしまったかのように、彼女の声だけが耳に残った。

「サンジくんと話すのも、いつも迎えに来てくれるのも。ここで過ごすのと同じくらい」
「そりゃ……どう、も」

 呆気に取られるあまり気の利いた言葉も返せずに、それどころか頭の中が真っ白になりそうな程困惑していた。

「……うん。それじゃあ」

 おやすみなさい、と彼女の口元が緩やかに弧を描いた。少しだけ気恥ずかしそうな表情を見せて、千紗はサンジの横をするりと通り過ぎる。そのまま、足早に部屋を出て行く彼女に声を掛けることすらできなかった。


 一人残されたサンジは気が抜けたように座り込む。そこは先程まで千紗が眠っていた場所だった。瞼を閉じても、眠れそうにはない。それどころか、千紗の姿が浮かんではサンジの心を掻き乱す。
 好く思われているのは仲間として、それとも――。
 今になって彼女を追い掛けたい衝動に駆られる。捕まえて、この腕に閉じ込めて、その答えを迫りたい。そんなこと、できるはずもないのに。

「おれは……君が、好きなんだ」

 伝えられないまま心の中でばかり膨らんでいく欲に半ば呆れながら。どうしようもなく頭を抱える。それでも、今はこの余韻に浸っていたかった。誰も知らない二人だけの時間のささやかな残り香に。

Aquarium
(甘く残る君の言葉に、自惚れてしまいそうになるから)





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