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「じゃあ……。先輩、入れてくれますか……?」

 それは予想外の言葉だったのか先輩はひどく驚いた顔をして、見開いた目を何度か瞬かせる。しばらくすると無言のまま傘を受け取り、手慣れた仕草で留め具を外した。


 両耳から、それぞれ違う雨音が聞こえてくる。片方からは傘の上を跳ね、地面に打ち付けられる水の音。反対側は分厚い壁に遮られたくぐもった音。
 人の声は遠くからしか聞こえない。まだ一緒にいたくて、手を伸ばしたのはわたしの方なのに。何を話したらいいのかわからないのは、初めて会ったときのようだった。


「ところで……」
「あ、はいっ」
「お前の家はどこだ」

 そう言われ初めて気付く。二人で傘を使うということは目的地が同じ方向でなければいけないことに。

「公園の向こうの図書館の近くで……」
「わかった」
「あの、近くまででも十分ですから」
「何のために入れたと思ってるんだ。今更遠慮する馬鹿がいるか」

 隣を見ても近すぎて潮江先輩の顔はよく見えない。ただ、言い方は厳しいけれどそれが先輩らしい気もして少しだけ安堵した。

 歩き出したときより僅かに雨脚は弱くなった。先輩の手は変わらず、揺れることなく傘を支えている。

「久しぶり、ですよね」
「ん……?」
「潮江先輩とこんなふうに一緒になるの。あんまり関わる機会もないですから」

 少し寂しかった、なんて言える立場じゃないのはわかっている。

「――お前が、」
「え?」
「お前が気付かなかっただけだろう」
「どういう意味、ですか」
「部活の最中に見かけたことも、廊下で擦れ違ったこともある」

 もしかして――、と思い当たる場面が脳裏に過ぎる。

「近くにいなかったわけじゃない。お前が気にしていないだけだ」

 そんなの、わかるわけがない。そう言おうとして、近付こうとしなかったのは自分も同じだと気付く。
 些細な行き違いを悔しく思う気持ちはあるけれどそれ以上に、見つけてくれていた――自分が知らなかったその事実に胸が温かくなるのを感じた。

「潮江先輩は、気にしてくれたんですか……?」
「バカタレ……、たまたま目に入っただけだ」
「それでも、わたしは嬉しいですよ」

 だって、わたしも同じように先輩のこと見てましたから。
 思わず零れる笑みを隠す理由は何もない。その顔で潮江先輩の顔を覗き込んでみるも先輩はそっぽを向いてしまった。それでもいいか、と。またくすりと笑い、少し速足になった先輩を追いかける。

「あのっ、先輩」
「何だ」
「今度は声、かけてくださいよ。わたしも先輩のこと見かけたらそうしますから」
「……見かけたらな」
「本当ですか? 約束ですよ」

 少々強引に取り付けた約束を先輩は呆れた声で「ああ」と受け流す。それでも十分だった。前よりもずっと近付けた気がするから。


Under the umbrella
小さな世界の中で、二人きりの小さな約束




「あ……」

 いつの間にか聞こえなくなっていた雨の音。変わり始めた傘の外に気付いて足を止める。

「雨、止んだみたいですね」
「ああ、そうだな」

 傘から一歩出ると微かに湿った気配を感じる。この程度なら急いで帰れば何の問題もない。

「おい」
「もう大丈夫ですよ」

 ちゃんと一人で帰れます、と心配そうに見る先輩の前に出た。

「家もすぐですから。潮江先輩、ありがとうございました」
「……ああ」
「それじゃあ、また」

 会えますように。小さな願いをかけて、先輩に背を向けた。行く先には見慣れた家路が広がる。先輩の隣を歩く時間が終わってしまうのは、少々名残惜しい気もした。

「望月!」

 名前を呼ばれ振り返ると潮江先輩は何か言いたげな表情で言葉を探していた。その困り顔が何だか新鮮で、少しだけ可愛く思えてしまったのは誰にも内緒にしておこう。

「気をつけて、帰れよ」
「はいっ」

 先輩に向け、大きく手を振って。足取りは軽やかに、わたしは水たまりのできた道を歩き出した。




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