Novel | ナノ



 白く長い廊下を間隔の短い足音が渡っていく。
 慌ただしさに押し流されてしまうようで、伊作はその音があまり好きではなかった。その所為か急がなくてもいいときは気の向くままに、なるべく緩やかな歩調で歩くよう心がけている。まあ、その急を要する場面がそれなりに多いのも医者という仕事の特徴ではあるが。

 ほんの僅かな隙間に、自分の持ち場である小児病棟を離れようとしたときだった。善法寺先生、と看護師から呼び止められる。

「どうかしたの?」
「胡桃ちゃん見ませんでした? お薬がまだなのに病室には見当たらなくて」
「いや、見てないけど……」

 胡桃ちゃん、というのは小児病棟に入院する患者の一人だ。じっとしているよりも動き回る方が性に合っているらしく、こうして時折看護師を困り顔にさせている。
 そんなあの子も順調にいけば今週には退院できるはずで、調子が良くなった分余計にじっとしていられないのだろう。

「見かけたら戻るように声をかけておくよ」
「ありがとうございます」
「ううん、気にしないで」

 すれ違いざまにひらひらと手を振ってその場を後にする。
 案外、自分が見つけるよりも彼女の方から病室に戻る方が早いんじゃないかと思っていることは口に出さなかった。子供の気紛れに振り回されるのもこの仕事のうちなのかもしれない。



「あ…………」

 伊作の口から思わず小さな声が漏れる。
 いつも遠目に眺める休憩所に珍しく二つ並んだ影があった。探していた女の子の隣に、それよりずっと年上そうな少女が一人。見つけた、そう思ったのは果たしてどちらに対してだろうか。

 彼女のことは知っていた――と言っても一方的に、だけれども。
 病院というのは案外人の流れの激しい場所で、自然と自分と関わりのない人間には目が向かなくなる。逆に、その流れから取り残された人間というのは目に付きやすい。彼女もそうだった。ずっと同じ場所に留まって、ぼんやりと遠くの外を眺める姿が印象に残っている。
 儚げなその瞳は彼女にどこか大人びた印象を与えた。ここにいなければ、楽しげな表情を見せていたのだろうか。きっと笑えば、もっと柔らかくあどけない雰囲気も垣間見えるだろうに。哀れみではなく、ただ純粋に陰に隠れたその部分が見てみたいと思った。


 二人共、伊作に気付く様子はない。特に胡桃の方は手元の絵本に夢中なようで、当分顔を上げそうにもなかった。
 一応、声をかけておくと言った手前知らぬ振りで通り過ぎるわけにもいかない。

「胡桃ちゃん」
「いさくせんせー!」

 その子は伊作の声に反応して勢いよく顔を上げた。

「看護師のお姉さんが探してたよ」
「ほんと?」
「うん、心配してるかもしれないから行っておいで」
「はーい」

 薬の時間だ、と言えば嫌がるかもしれないから黙ったままその聞き分けの良い背中に笑顔を向ける。

「お姉ちゃん、またねーっ」

 少し離れてから、小さな体を目一杯使って振られた手は子供らしい無邪気さに溢れていた。ただ彼女は興味がないようで、すぐにそっぽを向いてしまう。そんな彼女の様子を観察していると、不審に思ったのか訝しげな視線でこちらを見ていた。


「いい子でしょう、あの子」

 彼女は語りかけた伊作に、何が言いたいのかとでも言いたげに小首を傾げた。

「君も多分そうなんだろうな、って。だからあの子が懐いたんじゃないかと思ったんだけど」
「……違う」

 初めて聞いた彼女の声だった。素っ気ないけれど幼さの残る声。

「そう?」
「あの子が寄ってきただけ」
「仲良くすればいいのに」
「同じ場所にいるから、仲良くしないといけない?」

その言葉に彼女のいる環境と感情の片鱗を見た気がした。少しばかり不用意に触れてしまったことへの後悔に胸が痛む。
 彼女の掌は手元のポールをぎゅっと握り締めていた。その腕から延びる細い管の先には雨だれのような雫が落ちている。

「そうじゃないよ。ただ、それも楽しいんじゃないかと思っただけ」
「勝手なことばっかり。言うだけなら気楽でしょうね」

 これ以上話す気はないと言うように彼女は立ち上がり伊作の側を離れようとした。

 待って――。思わず引き留めた声は予想以上に切羽詰っていて、顕わにしてしまった焦燥に自分でも驚きを隠せなかった。それは彼女も同じだったようで、丸く見開かれた目で伊作の前に立ち竦んでいた。

「あの……、別に君のこと何も考えずに言ったわけじゃないんだ」

 むしろ、その逆だ。考えたうえで、それでも諦め切れなかったから。たとえ彼女が諦めてしまっていたとしても。

「嫌な思いをさせたなら謝るから――」
「…………いい。そこまで怒ってるわけじゃないから」
「ほんとう? よかったぁ……」

 心底安堵したような表情で伊作は胸を撫で下ろす。

「ありがとう、望月千紗ちゃん」
「なっ――――」

 教えてもいないはずの名を突然呼ばれ彼女は思わず声を上げた。しかし、手元を見てその理由を思い当ったのか一歩後ろへと身を引き点滴台を引き寄せる。戸惑いの残るその顔で伊作を見た後、千紗は足音の聞こえる方へと去って行った。


 嫌われただろうか――。
 柄にもなくはしゃぎ過ぎてしまったかと伊作は苦笑する。挽回する機会があればいいけれど。もう一度話しかけたら彼女はどんな顔をするだろう。たとえ迷惑そうな顔をされてもそれはそれでおもしろいかもしれないと思ってしまうあたり、嫌われていても仕方がない気がした。

「またね、千紗ちゃん」

 後ろ姿に微笑みかけて、呟いた言葉を彼女はまだ知らない。


褪めた少女に愛の手を
(僕にも、君の為にできることがある気がするから)





×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -