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 どこか遠いところへ行きたい、と。
 願いと言うには希望の欠片もないような声で、そう呟いた。ベッドから見た窓の外には灰色のビルの群れを覆うように青い空が広がっていた。

「例えば、どんなところに行きたいの?」

 そんな戯言は他の患者からも飽きるほど聞いただろうに。隣にいる医者は呆れる素振りも見せず、普段と変わらぬ呑気な様子で話を続ける。

「海の見える崖とか、丘の上とか、樹海とか」
「ははっ、また妙なところに行きたがるね」

 色の無いこの場所にいると外の景色がやけに鮮やかに思える。ここは白い牢獄。見えるのは限られた場所だけで、記憶の中の"外"にも随分と触れていない。千紗はそれが怖かった、褪せていく記憶と共にそのまま自分も感情も何もない無色な存在になってしまうようで。

「ご両親にでも言ってみたら? 案外連れて行ってくれるかもしれないよ」
「なんでって聞かれて、結局流されるのがオチ」

 そういえば伊作は何故とは言わなかった。千紗を肯定するように、ただ笑って見せた。固定的な観念から外れた場所で物事を見る伊作の柔軟さは嫌いではなかった。むしろ、時折羨んでしまいそうになる。

「じゃあ、良くなってから自力で行くとか」
「……うっかり足滑らせて海にでも落ちていいなら」

 暫し考える素振りから少々棘のある言葉を返した千紗に伊作は「それは困るな」と苦笑した。
 別に、死に急ぎたいわけじゃない。ただ無条件に明るい未来を思い描けるほど無邪気でもいられなくて。世界の淵を何も考えず歩いてみたいと霞んだ幻想を抱く。

「君一人じゃ心配だから、僕も一緒に行こうかな」
「……せんせいが?」

 千紗は一瞬目を大きく開き、その驚きを顕わにした。
 同時に伊作の言葉を喜ぶ自身の心にも気付いてしまう。きっと、単なる病人への気休めだ。期待なんて柄でもない。他の人間なら、どうせその場限りの言葉だろうと見限れるのに。彼の言葉にはいつも信じたくなるような何かがあった。

「忙しい合間を縫って、だからすぐには無理だけどね」
「それ、こんなところにまで来て暇そうにしてる人の言える台詞?」
「こうでもしないと休憩できないんだよ」

 伊作は気の抜けた声を上げながら背伸びをした。そのわざとらしさに白々しい目を向けるも彼は全く気にしていないらしい。
 伊作は千紗のいる病室を度々訪れる。ただし彼は担当医でもなければ専門とする分野も違う。することと言えば意味のない話を半ば一方的に語りかけ去っていく、要するにただの見舞いと大差ない。千紗がそれに反応したり彼女の方から声をかけたりするようになったのはここ最近になってのことだった。
 それも、心を許したというより勝手に居座ることへの抵抗を諦めたという方が正しい。彼の意図が掴めず苛立ちに似た感情を抱くことも多いけれど。


「あと、立場上病人連れ回すわけにはいかないからちゃんと良くなってからね」

 ほら、やっぱり他愛もない口約束だと。千紗は無意識に唇を尖らせる。別に落胆したわけじゃない、そんなもの最初から想定の範囲内で。


 俯いた千紗の前に影ができる。顔を上げるといつの間にか伊作が窓との間を妨げるように目の前に立っていた。

「……何もかも、諦めないで」

 その声はどこか悲しげだった。なんの関係もないはずの彼が胸を痛める必要がどこにあるというのだろう。

「なんでっ、いつ、も――」

 その先は言えなかった。感情の方が先に押し寄せて、言葉が上手く出て来ない。
 珍しく感情的に声を荒げる千紗の頬に伊作の手が触れる。それは、拒絶する隙すらないほどに優しく緩やかに。切なげに目を伏せた伊作の顔から千紗は視線を逸らせなかった。

「君に笑ってほしいって、そう思ったから」
「そんなの……」
「別に無理して明るく振る舞えなんて言わない。ただ、君が自然に笑えるような……そんな未来を見たいと思っただけ」


 希望に胸を膨らませても叶わなければ残るのは絶望だけ。落胆したくないから、何も期待しないように未来を願うことすらやめたのに。伊作は千紗が諦めたものを掬い上げては目の前に差し出す。まるで、希望の光を目の前にちらつかせるように。

 何故彼がそこまで自分に干渉しようとするのか千紗にはわからなかった。
 医者としての義務感だろうか。直接的な患者でもなければ、自分の正義を振りかざすような相手でもないというのに。

「そのためなら、僕は何だってするつもりだよ」

 だから、希望は捨てないで。そう呟く伊作の瞳はいつになく真っ直ぐに千紗を見据える。
 その言葉に頷いてしまえば今までの自分が崩れてしまいそうで、千紗はただ揺れる瞳を向けることしかできなかった。


 一瞬の沈黙が訪れた後、伊作は目を細め微笑んだ。もう行かなくちゃ、と。頬に添えられていた掌が離れていく。その手が触れていた場所にはまだ彼の温度が残っているような気がした。

「また来るから」

 そんなこと聞いてもいないのに。いつもと同じ一言を伝え、伊作は千紗に背を向ける。翻る白は味気ないはずなのにやけに鮮やかに見えて。初めて、この瞬間を名残惜しいと感じた。


少女は深淵を願う
(逢う度に大きくなっていくその存在を、認めてしまえば更に自分が弱くなりそうで)





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