Novel | ナノ



 久々の雨の気配がした。
 まだ薄暗いだけの空だけど、いつそこから雫が降ってきてもおかしくないような空模様。
 雨水が容赦なく地面で飛び跳ねるほどの悪天候になることはここ数日なかった。相変わらず空気は少々湿っぽいけれど、雲間から太陽が燦々と顔を出す明るい時もあるほどで。

 雨に濡れ、公園で狼狽えていた日のことを思い出すと懐かしい気持ちになる。まだそれほど時は経っていないはずなのに。
 潮江先輩とはジャージを返したきりまともに顔を合わせていない。元々接点のある人ではなかったのだからごく自然なことだけど、少しだけ胸を掠めるような寂しさを感じた。

 梅雨もそろそろ終わりだろうか。それとも一時的な梅雨の晴れ間なのか。夏というにはまだ早い季節の間で一人立ち尽くしているような気分だった。

 下駄箱から自分の靴を取り出す。委員会の仕事が思いの外長引いて結局下校時刻まで居残る形になってしまったせいか他に帰る生徒の姿は見当たらない。外を見ると校舎にいる間に降り出していた雨は絶え間なく地面を濡らしていた。

「あれ?」

 私は玄関口で首を傾げた。今日の朝確かに持ってきたはずの傘がそこにはなかった。
 誰かが取り違えたのだろうか。透明なビニール傘程ではないけれど、水玉模様の傘なんて女子生徒なら誰が持っていてもおかしくはないだろうから。そこそこ気に入っていたものだから後からでも気付いて返してくれるといいんだけど、なんて呑気なことを思いながら屋根の覆うぎりぎりの所で雨の音を聞いていた。

 もう少し弱くなったら走って帰ろうか。ここで適当に誰かの傘を持ち去ってしまったら私と同じように困る人がいるかもしれない。先生に事情を話して傘を借りるのは少々面倒臭い。ずぶ濡れになって帰るのはいつか親切にしてくれたあの人に逆らうようで、少しだけ罪悪感が過ぎる。

「どう、しようか……」

 正直どうする気も起きなくて、立ち尽くしていたときだった。

「こんなところで何をしてるんだ」

 後ろから呼び掛ける声が聞こえた。どこか苛立ったような、威圧感を孕むその声には聞き覚えがある。丁度その人のことを思い出していたから、すぐにわかった。mmm

「潮江、先輩……?」

 思っていた通り、振り返るとそこには眉を顰めて此方を見ている潮江先輩の姿があった。
 会えたことは嬉しいはずなのに、素直に喜べないのは先輩が怒っているように見えるからだろうか。それとも自分の気持ちの問題だろうか。ぼんやりと見つめるわたしの耳へ、タイル張りの床に紺色の傘の先端が触れる音がコン――と響いた。

「まさか、そのまま帰ろうってつもりじゃねェだろうな」
「えっ、あ、はい」
「お前な……、学習能力というもんはないのか。この前酷い目にあったばかりだろう、傘ぐらい持ち歩いておけ」

 先輩はその後も注意力が足りないだとか何だとかぶつくさと呟いている。わたしだって好きでこんな状況にいるわけじゃないというのに。

「違います……。傘だってちゃんと持ってきましたから」
「じゃあ何で手ぶらなんだ」
「帰ろうとしたら見当たらなくて……。誰かの傘と間違われたんですかね、あはは」
「そう、か……」

 そう言うと潮江先輩は考え込むような仕草のまま押し黙ってしまった。大して困ってはいないと言わんばかりに笑って誤魔化したけれど先輩には通じなかったらしい。
 最初からわざわざ声を掛ける必要なんて無くて、素通りしたっていいくらいなのに。先輩はとても律儀な人だ。律儀で、考え方も堅苦しいけれど、優しい。触れ合った時間は短いけれどそれは十分に伝わっていた。

「その…………すまん」
「いいですよ、気にしないでください。先輩もほら、早く帰らないと」

 わたしは大丈夫ですから。そう言って笑顔で見送るけれど、潮江先輩はその場を離れてはくれなかった。それどころか、ぽんっと先輩が持っていたはずの傘を手渡される。

「俺のを使え」
「だ、ダメですよ。それじゃあ先輩が困るじゃないですか」
「言い過ぎた分も含めてだ、気にするな」

 ついさっき自分が言ったはずの台詞が今度は潮江先輩の口から聞こえてくる。先輩は多分、私が何を言っても譲ろうとしない。これじゃあ堂々巡りだ。
 もしも、わたしが今傘を返して駆け出したなら先輩はこの腕を引き留めるのだろうか。それは精一杯の予測と、少しの期待。また叱られてしまいそうだから、そんなことできるわけがないけれど。

 少しだけ考えた後、わたしは飾り気のない傘を差し出した。


Pure Mind
変わらない貴方に、近付きたくて手を伸ばす





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