まるで夢心地のような、そんなふわふわとした気分が続いてる。
風呂上がりの髪を念入りに乾かして、湯冷めしないうちにベッドに俯せに寝転がる。同時にふうっと漏れた溜め息は一日の慌ただしさを表しているようで、今日の出来事が再び頭の中に流れだした。
気が付けば、同じ人のことばかり考えている。今日出会ったあの人のことだ。
初めは怖いとすら感じていたのに、不思議なもので別れる頃には雨の日の災難も悪いことばかりじゃないと思えるくらいには温かい時間だった。
潮江先輩、か。それ以外に知ることはほとんどない。名前も聞いておけばよかっただろうか……。
ハンガーにかけてあるジャージにちらりと目をやる。これが今の唯一の繋がり。多分、これもわたしが家まで羽織って帰れるように気を遣ってくれたのかもしれない。親切な人なのだろう。思い返すとお礼を言ったときに照れていた顔が浮かんで、思わず頬が緩んだ。
わたしにとっては、今も残る繋がりがただ嬉しく思えた。明日これを渡し終えたらこんなふうに先輩のことを考えることもなくなるんだろうか、それとも――。
そこまで考えてわたしは枕に顔を埋める。
次第に、考え過ぎでオーバーヒートしそうになっていた頭の温度が下がっていく気がした。
「変なの……」
いくら考えたって時間は過ぎるだけ。
観念して部屋の明かりを消すと、少しだけ寂しくなる心ともう一度会えることに期待する胸を鎮めて瞼を閉じた。
明くる日、いつもより早く起きた朝はまた雨が降り出していて。傘を差しながら一つ増えた荷物を濡らさないように大事に抱え学校への道を歩く。道中考えていたことはたった一つ。どうやってこの荷物を潮江先輩に返すのか、それだけだった。
成り行きで借りてしまったはいいものの返す方法がわからなくて困ってしまう。
苗字と顔は知っているけれどどこの教室に行くのかは知らない。
同じ学校にいたって必ず会えるなんて確証はないから、せめて少しでも早く会えるようにと時間をずらして家を出てみた。
教室に着くと思った通りまだあまり人は来ていないようで、数人が疎らに人が座っていた。
「千紗がこの時間に来るの珍しいんじゃない?」
自分の席に荷物を置くと近くの友人から声を掛けられた。
「うん、ちょっと用があってね。綾ちゃんは?」
「僕は寝坊しないようにいつもこの時間に来て学校で寝てる」
「あはは、変なの」
綾ちゃん、と呼ぶとまるで女の子を呼んでいるようだけどそこにいるのは男の子。名前は喜八郎。苗字が綾部だから綾ちゃん、そう呼び始めて随分と経つ。
「あのさ、潮江先輩って知ってる?」
「潮江文次郎……先輩?」
「知ってるの?」
人伝に聞いたフルネーム。文次郎、なんていかにも真面目そうな名前。
まだ合ってる確証はないけれど何故か間違いないと思えるのはその人らしい名前だと思えたからだろうか。
「剣道部の主将でしょ?うちの部長と同じクラスみたいだからたまに一緒にいるの見ただけだけど」
「へえ、クラスって何組かわかる?」
「確か1組」
「わかった、ありがとう!」
一気に増えた相手の情報に思わず口許が緩んだ。そのまま教えられた教室へ駆け出そうとすると彼に引き止められる。
「ねえ、もしかして会いに行くの?」
「うん、そうだよ」
「千紗が?潮江先輩に?」
「うん」
素直に頷いてみるも友人はまだ納得していない様子だった。
「千紗が近付きたがるようなタイプじゃない気がするんだけど。何かあったの」
「何でもないよ、ちょっと会ってくるだけだから」
それ以上聞いているとまた教室を出るタイミングを失ってしまいそうだったのでそのまま駆け出す。珍しく走ってみた廊下も擦れ違う人は少なくて簡単に通り抜けられた。
3年生の教室に行くついでに下駄箱を覗いてみることにする。クラスと名前が分かれば既に来ているかいないか靴を見ればわかるはずだから。
下駄箱に貼られた名前を順に追って行く。酒井、佐藤、椎名、……潮江。
「あっ――」
「おい、そこにいられると邪魔なんだが」
あった、と声に出そうとしたときだった。背後から聞こえたひどく不機嫌そうな声。
恐る恐る振り返るとそこにはしかめっ面でこちらを見ている潮江先輩がいた。
「あ、あのっ」
「お前……」
「覚えててくれましたか?」
「一応な」
「それならよかったです、これ返しに来ました」
「ああ、そういえばそうだったな」
差し出した袋を先輩は片手で受け取る。手から離れていく瞬間言葉にし難い名残惜しさが後を引く。
「よかったです、会えて」
「は?」
「後から先輩のクラスも何も知らないこと思い出して、早く返せるかって少し不安だったから」
「随分と考え無しだったんだな」
「そ、そんなことないですよ。いざとなったら先生通してでも絶対返そうって思ってましたし、それに……何となくまた会えるような気もしたから」
慌てて反論したわたしのどこが面白かったのかはわからないけれど、潮江先輩はふっと息を吐いて笑った。
「わたし変なこと言いました?」
「いや、よくわからん奴だと思ってな」
わからないと言われているのに嬉しくて、どこかくすぐったい気持ちになる。
「それじゃあ……」
用も済んだので教室に戻ろうと進み出したところで思い直しふと立ち止まった。
「あの……、先輩はそんなふうに笑ってた方が素敵だと思いますよ」
振り返って思ったままを口に出してみたものの、随分と生意気なことを言ってしまったのではないかと我に返る。不安になって相手の顔もろくに確認できぬまま走り去ってしまった。
First Name
あの人は、どんな顔をしていたのだろう