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 独りになりたかった。
 俺の周りは少し賑やか過ぎるから。自分には不釣り合いなくらい。普段はそれが心地好かったはずなのに、今はただそこから離れたいと思った。
 ただ漠然と、その割に動き出すことに躊躇はなかった俺の足が喧騒から遠ざかる。
 
 辿り着いたのは高等部の最上階。俺のいる中等部とは打って変わって高等部の校舎は落ち着き払っていた。騒がしい空気なんて校舎の中の一部にしか見当たらない。先輩に用があるときくらいしか寄ることはないが、来る度にほんの数年の違いを見せ付けられたような気分になる。
 そんな所に俺の居場所なんかあるはずもなく、時折自分達とは型の違う制服を気にする視線を受けながらふらふらと最上階まで辿り着いてしまったわけだ。しかしこれ以上先に道はない、行き止まりだ。
 いや、正確には目の前にあるのは陽の当たらない階段と薄汚れた扉。屋上への入口ではあるが普段から施錠されていて生徒は入れない。先がないと頭ではわかっているのに何故だかその重たそうな扉に自然と伸びる手。
 
 ああ、今日の俺はどうかしてる。
 自分でも馬鹿らしくなって笑えてきた。
 
「えっ……」
 
 意外なことに軽く掴んだドアノブはするりと回って。驚きのあまり間抜けな声をあげてしまった。
 ぎぃ……と音を立てるほど錆びた分厚い扉に閉ざされていた景色にゆっくりと光が差し込んで、映し出されたのは広い青空。そして、小さな後ろ姿。
 
「だれ?」
 
 扉の開く音に気付いたのか彼女が此方を振り返る。
 
「あっ、俺は。えっと、その……」
 
 何か答えないといけないことくらいわかっているのに、驚きのあまり喉が渇いて上手く声が出せない。それは開かないはずの扉が開いたせいだけじゃなくて、青天を背負い風になびく髪があまりに綺麗だったから。まるで絵のようなその風景は俺の見慣れた景色しかない頭の中に一瞬で焼き付いて言葉までも攫っていった。

「あー、鍵かけ忘れてたのね。いつもはちゃんと内側から閉めてるのに」
 
 鍵もなしにここに入れるなんて運がいいのね、と彼女は此方をじっと見たあとふわりと笑って。
 高等部の制服、知らない先輩、けれどどこか見覚えのあるその姿その声。気になることは山ほどあるのに緩やかに弧を描く口元に自然と考えようとする心が奪われる。
 
「折角だからこっちに来ない? いい眺めよ」
「いや、でも……」
「開けたままだとまた誰かが通りかかったら困るの」
 
 むっとした顔で言われてしまうと逆らうのも気が引ける。迷うつま先を思い切って前に進め、俺は言われるがまま彼女の元へ。
 何故こんなにも動揺してしまうんだろう。知らない人間に話しかけられることくらい幾度も経験してきたはずなのに。
 
 
「ね、素敵な景色でしょう?」
「えっと、まあ……。空も校庭もよく見えますね」
「でも向こうにいる人はこんなとこから覗かれてるなんて思いもしないから気付かれない。ますます素敵でしょう」
 
 そう言って悪戯っぽく笑う彼女は子供のようだった。
 
 その後も彼女は俺の思考を遮るように話し掛けてきた。一体何が楽しいのか、次から次へと。それも話題に困っているわけじゃなく純粋に会話を楽しんでいるように見える。
 大きく見開いてこちらをじっと見つめてくるかと思えば目を細めて遠くの方眺めて。落ち着きがない、とは少し違う。ただ常に同じ表情でいることはなく、ころころと変わるその様はむしろ楽しげで心地好かった。
 
 
「あの……」
「何?」
「なんで屋上の鍵なんて持ってるんすか?」
 
 俺に話しかけてくる声がようやく落ち着いた頃、ずっと疑問に思っていたことを投げ掛ける。 
「ふふっ、知りたい?」
 
 俺の問いに彼女は目を輝かせて、それはもう楽しそうに聞いてくるのでどんな答えが待っているのかと期待しながらこくりと頷いた。
 
「うーん……、秘密」
 
 勿体振らせて無駄に期待させないでくれという念を込めて彼女の方をじーっと睨むと彼女は怖がりもせず、ただごめんごめんと苦笑するだけだった。
 

「……俺、もう行きますから」
 
 ここに来てどれだけ経ったのか。時間も何もかもわからなくなってしまいそうな不思議な感覚から逃げるように立ち上がる。

「ねえ、またおいでよ」
「は?」
 
 思ってもみなかった提案に目を丸くして彼女の方を見る。
 
「昼休み、用がなかったら大体ここにいるから。ノックは三回、それがあなたが来たって合図ね。そしたら扉を開けるわ」
 
 どうやら俺がここに来ることは彼女の中では既に決まっているらしい。
 
「誰にもわからないようにここまで来てね」
 
 いくらこの付近に人気がないとは言え中等部の生徒が目立たずにこの校舎を歩くのは少々難しい。しかし楽しげにこれからのことを話す彼女に嫌とは言えず、もうどうにでもなれと半ば投げやりな気持ちで適当な返事でやり過ごす。
 そうしているうちにふと思い出したことがあった。
 
「名前……、名前教えてくれませんか。次来たとき、呼べねえから」
 
 そう、俺はこの人の名前を知らない。そしてこの人もきっと俺の名前を知らない。
 
「ふふっ」
 
 ほら、また。彼女は俺が何か聞く度に笑う。理由のわからぬその笑みにむず痒い思いは募る。
 
「望月千紗よ、ここの3年」
「俺は、中等部2年の富松作兵衛」

 今更過ぎる自己紹介に照れ臭くなる気持ちを隠すように視線を外しぶっきらぼうに答えた。
 
「またね、作兵衛」
 
 そう言って彼女は去り際の俺に微笑みかけた。

 

 扉が閉まった瞬間、昼休みの終わりを予告する鐘が鳴る。それを聞いた俺は急に現実に押し戻された気分になった。
 新しく刻まれた名前を頭の中で繰り返しながら階段を降りる、さっきまでのことが夢じゃないと確かめるように。


空色の邂逅
(あの扉を叩けばまた会えるだろうか。とても不思議なあの人に)





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