短編 | ナノ
▼ 報われない

大学の講義に出て、夕方からのバイトが終わって疲れて家に着いた頃。酒でも飲みながらテレビを見るかと立ち上がった時に玄関のベルが鳴り響いた。こんな深夜に来る奴なんて高校時代の野球部くらいだ。
一言怒鳴ってやろうと意気込んでドアスコープを覗いて、まさかと思った。扉を開けると、想像していなかった名字がそこにいた。こいつが一人で俺の部屋に来るなんて初めてだ。その姿は俯いているようで、今にも泣きそうだった。

「おい、こんな時間に何してんだよ。御幸は、」

俯く彼女は小さく「助けて」としか声に出さない。恐らく御幸と喧嘩でもしたんだろうか。名字は俺の好きな奴だった。でも、名字は御幸が好きでこいつが幸せになるならと諦めたのに。くそ、名字を泣かせてんじゃねえよ。こうなったら容赦はしねえ。宣戦布告だ。

「…とりあえず、中入れよ」

下心を見透かされてはないだろうかと内心焦ったが、彼女はそれどころではなさそうだった。名字と御幸が今まで喧嘩をした事はあったが、名字が泣いてるところを見るのも、俺を頼ってくるというのも初めての事だった。名字は俯いてその場から動こうとしないので、欲が勝って彼女の手を取って自分への胸へと引き入れた。
彼女の手に触れて、その手の冷たさに思わず驚いた。そして全体的にひんやりとした彼女の身体が切なく、御幸に対して怒りが湧いた。

「俺なら、お前をこんな事にさせねえ。俺にしろよ」
「…ずっと、一緒にいてくれる?」
「ああ」

名字は恐る恐る俺の背中に手を回す。初めて彼女に触れたのに、こんなにも悲しい。服越しからも名字の冷たさが伝わって来て、どれだけ長い時間外に居たのかと憤りを感じた。

「お前、冷たいんだよ馬鹿。さっさと風呂入ってこい」
「…わかった」

そのまま名字を脱衣所に押し込んで扉を閉めた。正直あの場で押し倒してやりたい気持ちもあったが、あまりにも血色が通ってない程に肌が白くて、なんだか今にも消えてしまうんじゃないかと思う程に怖くなった。名字を温めるのが先だ。
しばらくすると聞こえて来たシャワーの音がいやに生々しくて思わずごくりと唾を飲む。

さて、この事を御幸に連絡するかどうかを悩んでいた。御幸との間に何があったが知らねえが、このまま名字を奪ってやりたい。しかし御幸と名字の問題があるなら解決もさせないといけない。それで名字がずっとうじうじと悩んでしまうのも目に見えている。
そのまま携帯を眺めていると、着信を知らせるようにバイブがなって思わずビビった。その相手は頭を占めていた相手だ。

「…よう、御幸」
「倉持、大変なんだ。落ち着いて、聞いてほしい」

電話相手である御幸の声が震えていて、焦ったように聞こえる。こいつのこんな声を聞くのは初めてだ。くそ、どうせ名字の事だろ。

「何だ、名字と喧嘩したのかよ」
「…それだけなら良かったんだがな、」

煮え切らない態度に腹が立つ。やっぱり喧嘩したのかよ。けれど、それだけでこんなに焦るこいつが分からない。ああ、家を飛び出してどこに行ったか分からないってか?それで俺に電話したのか。ここは御幸に正直に言って、俺が預かる事にする。これくらい良いだろ。あわよくば奪ってやるつもりだ。

「俺、今病院にいるんだ。名前が事故にあって、さっき手術が終わったんだけど、名前が、死んだ」
「……は?」

何言ってんだこいつ。俺は頭が真っ白になった。電話の先から「おい、聞こえてるか」という御幸の声が流れる。俺はそんな御幸の声が頭なんかに入って来なかった。死んだ?誰が?嘘だろ、だって、名字は今ここに。呆然と力が抜け、手にしていた携帯が俺の手からするりと落ちて、カタンと音を立てた。

気が付いたら静寂が戻っていた。違和感だけが辺りを包む。さっきまでのシャワーの音も、物音も、何も聞こえない。自分の心拍数だけが嫌に耳に付く。
後ろから、キィと扉を開く音が聞こえた。

首筋から背中に一筋の汗が流れる。速まる鼓動に呼吸が小さく上がる。足が震えて振り返る事が出来ない。それでも何かが近付いてくる気配だけははっきりと感じられた。ちょっと、待てよ。口まで震えて声を出す事すら叶わない。

今、俺の後ろにいるのは、誰だ。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -