私はずっと兄ちゃんと一緒だった。ずっと兄ちゃんを見てきた。 お母さんが亡くなったのは目が眩むような暑い夏の日だった。よく覚えている。向日葵畑をすり抜けて、私は必死に病院へ走った。額や頬を伝う汗も気にせずに、それはもう風を振り切るように。 熱中症寸前で病院についたとき、お母さんは既に死んでしまっていた。そこにいたのは、ぼぅっと床を見つめる兄ちゃんだけだった。 私は何も言わなかった。兄ちゃんも何も言わなかった。廊下を歩く看護婦さんのナースシューズの音と、じりじりと響く蝉の鳴き声だけが脳内をがんがんと打ち付けていた。 その後のことはよく覚えていない。ようやく落ち着いたとき、私と兄ちゃんは親戚の家に引き取られて、普通に学校生活を送っていた。私は小学生高学年で、兄ちゃんは中学生だった。 親戚の人はとても優しかった。まるで実の子のように私達を見てくれていたと思う。それでもこの違和感が拭えることはなかった。 それと虚無とに、無意識に落ち潰されていたせいだろう。私はすぐに体調を崩した。親戚の人がお粥を作ってくれたり、風邪薬を買ってきてくれたり、氷枕を作ってくれた。私はその度にありがとうございますと言ったことを覚えている。嬉しかった。でもそれと同時に吐きそうなほどの違和感がどんどん広がり、どうしようもなかった。親戚の人が部屋から出て行く度に私は静かに泣いた。 泣き疲れて寝たのか、次目を覚ました時にいたのは兄ちゃんだった。 「にいちゃん」 「大丈夫か、なまえ」 兄ちゃんはそう言いながら私の額に手を置いた。冷たい。兄ちゃんの手はいつも冷たい。でも手が冷たい人って、心が温かいって聞いたことある。 「ちゃんと食べたんか」 「うん」 「具合はどうや」 「兄ちゃん見たら元気になったかも」 私がそう言ってにっと笑うと、兄ちゃんも呆れた様子で笑った。黒い学ランを着ている兄ちゃんは、なんだか凄く大人に見えたし、かっこ良かった。 「なまえ、顔赤いで」 まだ熱あるんちゃうん、氷枕変えよか、と兄ちゃんは言って、氷枕を持ちながら兄ちゃんは出て行ってしまった。……氷枕なんてどうでもいいから、兄ちゃんが側にいてくれればいいのに。でも私はそう口に出すことができなかった。 ◇ 私はいつだって口に出すことができなかった。中学生のときに、駐輪場に呼び出されて告白をされた時だってそうだ。しつこい男子で大嫌いだった。 「なんでや!? なんで彼氏おらんのに俺のこと振るん?」 「別にええやろ」 「おかしいやろ! 好きな人おるん?」 おらんよ――、何故かその一言が言えなかった。私はびっくりして、思わず口に手の先を当てていた。相手の男子は目を丸くしていた。多分、私もそういう表情をしていたんだと思う。 好きな人――おらんよ。クラスにいる男子はみんなチャラチャラしてるし、腹の底では何を考えているかわからない。誰も本心で笑ってない。誰も自分のことしか考えていない。そう考えると虚しくて仕方がなかった。この男子だって、きっと私の見てくれしか好んでいないのだとわかっていた。じゃあ、私は誰が好きなんだ? 私は誰も愛していないんじゃないのか? 「……おらんよ」 「う、嘘や!」 「嘘やない!」 おらんって言うとるやろ! ――私はそう叫ぶと、その場を後にしてひたすら走った。茹で上がりそうな暑い日だった。お母さんが死んだ日を思い出した。……その後の歪んだ記憶の断片には、いつだって兄ちゃんがいたことも。 (嘘や) 「嘘や。こんな、こんなのってアリなん? いつだって私に笑いかけてくれたのって、兄ちゃんしかおらんやん。本当のなまえを知ってくれてる人って、兄ちゃんしかおらんやん」 いつの間にか私は向日葵畑を横切りながら、必死にそう叫んでいた。 私はなんて馬鹿な感情を抱いたのだろう。 ああ、私はなんてとんでもないことに気づいてしまったんだろう。 (私) あの日のようにひたすら走り続けることなんてできなかった。苦しい。胸が。どうしようもなく。酸欠で死んでしまいそうなほどに。 私は乾いたコンクリートの上に倒れこんだ。焼けるように暑い。足が、手が、脳みそが。私は、私は、私は。 (兄ちゃんのこと、好きや) ◇ 高校生になった私はかなり内面的な女だったと思う。中学のときの一件があってから、変な誤解を招かれたくないので極力喋りたくもなかったし、喋りもしなかった。そうしているだけで人間は離れていくから楽だ。 兄ちゃんは大学生になった。兄ちゃんが一生懸命に勉強やロードに打ち込んでる姿を見て、私は余計兄ちゃんが好きになった。それは唯一血の繋がった兄に抱く感情ではなかった。所詮憧れや羨望という、そんなものではなかった。高校生が抱くべき、極普通な恋心だった。――相手が兄でなければ。 「兄ちゃん」 「なんや」 「勉強、頑張ってぇな」 「ありがとうな。なまえも勉強頑張ってな」 「……うん」 この恋を自覚したのがいつかは覚えていない。小学生のときだったか、中学生のときだったか、はたまた私が産声を上げた瞬間からなのだろうか。でもこれだけはわかっていた。この恋は実ることなく腐って消えることを。それでも、 「兄ちゃん」 勉強机ばっかり見てる兄ちゃん。ロードに乗ればずっとコンクリートと風景と空ばっか見てる。私のことなんて微塵も見てくれていない。 「好きや」 兄ちゃんの背中に向かってそう言った。兄ちゃんはシャーペンを走らせている。兄ちゃん、笑っとるの? 泣いとるの? それとも 「ボクも好きやで」 なんとも思ってないん? 私は静かに戸を閉めた。私は愛想笑いしようと思ったけれど、兄ちゃんはこっちを向いてくれないだろうし、ならする必要がないと思って、無表情のまま閉めた。そしてまた、私は表情を浮かべずに自分の部屋に向かう。 (いらんな) いらん。こんな余計な感情必要ない。兄ちゃんはこっち見てくれるはずないし、見てくれたとしたらそれは家族としてだ。唯一血の通う妹として。私と兄ちゃんは愛を語ることなんてできないし、兄ちゃんにはそんな気微塵もない。 (いらん、こんな感情いらん) 歩調が早くなっていく。私は何を慌てているんだろう。ようやく気づけたんじゃないか。 私と兄ちゃんは“本当に”結ばれないんだって。 ばたん、と自室のドアを閉めた。限界だったのかもしれない。私はドアに背をぴったりとくっつけ、そのままするすると地面へ落ちていった。暫く体育座りで俯いていると、涙がぼろぼろと溢れていることに気づいた。 (あ、ああ) 私がいつからか抱いていたその感情が、涙と共にぼろぼろと消えてゆく気がした。そしていつかに感じた孤独と虚無に押しつぶされそうになるそれが、何年ぶりかに私に降り注いだ。 (なんや、私、) (ずっと一人だったんか) 私がそれに気づいた時、私を慰めてくれる人間は誰もいなかった。 |