(黒田→モブ→荒北の描写があります)



一、
それは最も眠気がピークに到達する五時間目のことだ。時間割には数学と書かれていたが、始業のチャイムとともに教室に入ってきたのは現代文を担当している教師だった。大量の数式が印刷された分厚いプリントを置いてそそくさと職員室に帰って行く後ろ姿を見て、心の中で悪態をついたのは私だけではないはず。
ご丁寧に二人一組で問題を解くようにと条件を出されてしまっては、迂闊にサボることもできない。いくら数学が大の苦手であっても、人様に迷惑をかけるのは不本意以外の何物でもない。
ため息を吐き出して席を立とうとしたところ机の上にプリントと筆記用具が置かれた。「おまえ後ろからな」と、見るからに難しい設問を指定したのは、かの自転車競技部に所属するクラスメイトである。私は私の机で因数分解を始めた彼を一瞥し早々に席を立った。しかし次の瞬間がしりと腕を掴まれ、その場に引き戻される。

「いやいや何でだよ!誘ってるってのに無視か!その耳は飾りか!アクセサリーか!」
「だって雪成うるさいし…」
「おまえ数学苦手だろ。教えてやらねーこともないから座れよ」

何とも上から目線で物申した雪成は、私を無理矢理席に座らせた。指定された設問はやはり難しいそれ。小問一から分からないと言ったら、あからさまに溜息を吐かれてしまった。苦手だと言っているのにこの仕打ち。黒田雪成はそういう奴だ。

「先輩とはどうなの」
「べっ、別に、どうもねェよ」

私たちの関係は浅いものだけれど、私だけが唯一知っている事実が一つだけ存在する。雪成の幼馴染である泉田くんだって知らないこと。雪成には想い人がいて、それが丁度グラウンドで体育をしているあの人であるということ。よくレースを見に来るあの人は世間一般にいえば中の上あたりに部類される女の子なんだろうけど、私からすれば、キラキラと光を帯びた陽だまりのような人。雪成には彼女がもっと輝いて見えているに違いない。見つめては、眩そうに目を背けて、顔を赤くして。
そんなに見つめるほど好きなら告白すればいいのに。数学のプリントと格闘するふりをしながら息苦しい言葉を吐き出すと、雪成は分かりやすく動揺した。面白い。面白く、ない。

「そういうおまえは、」
「いないよ」

本当はいる。雪成は知らない私の好きな人。雪成があの人を好きな限り、私はそれを伝えることはしない。伝えて壊れてしまうのなら、どんな形であれ触れないほうがこれ以上傷まずにすむ。

「すっかなァ」
「何を?」
「先輩に告白」

頑張ってね。なんて、思ってもない言葉を口にした。私は嘘つきだ。

ニ、
台風が接近したところで学校が休みになるとも限らない。現に、外は暴風雨にも関わらず電車は動いているからという理由で登校可能の判断が下された。寮生でない私は自宅から駅、駅から学校に至るまでの道のりを歩いて来たため、一日を体操着で過ごすというペナルティを負った。ジャージが似合わないと好きな人にも笑われるし、本当に今日はついてない。そう思って雨の中に繰り出そうとした矢先、玄関で盛大に滑って転んだ私はそろそろ仏神を恨んでもいいと思う。
生乾きの制服は泥まみれ。膝小僧は擦り剥け、傷口からは赤い血液が流れている。近くにいた友人のおかげで保健室まで辿り着くことができたが、あいにく保険医は不在。心配性の友人にこれ以上迷惑をかけまいと、私は一人静かな保健室で傷口の処置を始めた。
傷口にしみる消毒液に耐え、大きめの絆創膏を両膝に貼り付ける。不恰好なそれに大きな溜息を吐いたあたりで、ガラリとグラウンド側の扉が開いた。とことん嫌なことばかり起きる日だ。まさか、この二人に出くわすなんて。

「なまえか…って、びしょ濡れじゃねェか。ちゃんと拭けよ」
「はいはいお気遣いドーモ」

なるべく二人を見ないようにして、私は鞄の中からタオルを取り出した。可愛くないだの素直じゃないだの、ぶつくさと言い出した雪成を見てあの先輩が笑っている。笑い方まで女の子らしくて綺麗だ。思わず、強く拳を握った。
雪成は大きな荷物を保健室の中に運び込むと、先輩の「ありがとう」に顔を赤らめて練習に戻って行った。日直のときは私に重たい荷物を持たせたくせに、先輩には優しい。この前も荷物を持ってあげてたことを、私は知っている。

「黒田くんと仲良いの?」
「いえ、ただのクラスメイトです」
「そうなの?よくみょうじさんの話聞くから、付き合ってるのかと思ってた」

絆創膏や消毒液を箱の中に補充しながら、先輩は柔らかく笑った。今の言葉に悪意なんてないに決まっている。けれど、確かに心臓はチクリと痛みを訴えた。

「先輩は、好きな人とかいるんですか」

彼女はどんな人を好きになるんだろう。先輩は、雪成のことをどう思っているんだろう。楽になれるか、あるいは首を締めることになるのかどちらとも分からない。ただ言えることは、それを問うたのは私のエゴでしかないということだ。
ピクリと指先を動かし静止した先輩は、戸惑ったように私を見た。そのとき、保健室の扉がまた音を立てて開いた。

「マネージャー、東堂がボトルねェって騒いでんだけど」
「えっと、黄色いクーラーボックスの中になかった?…あっ、待って私が見に行くから荒北くんは休憩、」
「他にも仕事あんだろ。そっち終わってからでいーから」

あれよこれよと気を使う先輩を上手いことあしらった荒北さんは、さっさと練習に戻って行った。去り際チラリと目があった気がしたが、気のせいだと思い直して先輩のほうを見る。「さっきの話だけど」と少しばかりバツが悪そうに、先輩は人差し指で頬を掻いた。

「いるよ、好きな人」
「今の人ですか」

小さな頷き。誰かに恋をしてる人間は至極分かりやすい。とくに、自分に嘘をつけない純粋な人間は。

「告白とかしないんですか?」
「うん。荒北くん、好きな人いるみたいだから…みょうじさんは好きな人いる?」
「…私は、いないです」

先輩はどこか儚げに笑って扉に手をかけた。軽く会釈をしつつ、濡れた髪から零れた水滴を見て思う。やっぱり私は嘘つきだ。

三、
オレンジ色が降り注ぐ放課後、私は一人教室に残ってプリントの空欄を埋めることに専念していた。既に出来上がっているものを写すだけとはいえ、三日分のそれらは机の上に随分と分厚く積み重なっている。あの日、雨に打たれた私は案の定風邪を引いて学校を休んだのだ。
私はお節介なクラスメイトに借りたプリントを睨みつける。今の敵は長ったらしい文章などではなく、男子によくありがちな特徴のある文字たちだ。「ち」と「つ」と「う」の違いを見分けることのできる読解班を今すぐ呼んで欲しい。このままでは何時になっても終わらない気がする。ぐんと伸びをすると、タイミング良く教室に来客が一名。

「…こんにちは」
「一人か」
「はぁ、見ての通りですけど」

二年生の教室を懐かしつつ、「何してんの」と当たり障りのない話題を持ち出したその人とは数日前にも接触している。私が風邪を引く原因となった雨の日。雪成が好きなあの人が、好きだと認めた人。
日頃からよく話題に出てくるうえ、レースを見に行ったこともあるから名前と顔くらいは覚えている。雪成が一度私を紹介したことがあるけれど、彼が私を覚えているかは定かではない。ただおそらく、私たちは互いを「食えない奴」だと認識していると私は見ている。腹の中の考えが読めないのはお互い様だろう。
――だから、荒北さんの口からよもやそんな言葉が飛び出るとは思ってもいなかったのだ。

「好きだ」

他愛のない話をしていたはずだ。プリントの話、先生の話、少し問題の解き方を教えてもらって、沈黙がやって来て、ただそれだけだ。あまりに脈絡がなさすぎる。私は、自分の指先が震えているのを知りながら荒北さんのほうを向いた。

「あの、それはどういう、」
「付き合ってとかそういう意味」

つまり、何だ、結局私も交わることのない渦の中に、無意識のうちに飲み込まれていたということだろうか。荒北さんは真っ直ぐに私を見ていた。変わらない表情。嘘をつけない純粋な人とは違う、私みたいに、平気で嘘がつける人だ。
言葉が見つからず目を背けた私に、荒北さんは畳み掛けるように口を開いた。

「黒田のこと好きなんだろ」
「…好きじゃないです」
「見てりゃ分かる。レース見に来てんのも、たまに練習に顔出すのも、あいつのことが好きだからだってことくらい――」
「好きじゃないです!!」

叫び声に任せて立ち上がったら、座っていた椅子が大きな音を立てて倒れた。ジワリ、視界が滲む。誰かを好きで堪らなくて泣く、そんな自分を人様に見られたくなくて、私はその場所から離れようとした。しかし、荒北さんはそれを良しとしなかった。強く手を引かれて、腕の中に押し込められる。あの先輩が私なら、嬉しさのあまり泣いて喜んでいただろう。荒北さんが雪成なら、私だって涙していた。
どうして雪成が好きなのは私じゃないんだろう。どうして荒北さんが好きなのは、あの先輩じゃないんだろう。唇を噛んで泣くのを堪えていると、「忘れなくてもいい」と荒北さんは言った。

「荒北さんは、嘘つきですね」
「そりゃおまえだろ」

そうです。お察しの通り、私は嘘つきです。だから、今から雪成のことは忘れようと思います。
震える声で言った私を荒北さんはどう思ったかは分からない。分からないけれど、世界も、私も、ここにあるものは何もかも優しくない。
世界は愛で溢れている。こう言えば聞こえがいいかもしれないけれど、入り交じる感情というのはあまりに複雑すぎて嫌になる。惚れた腫れたの色恋沙汰は、決まって単純な結末を呼んでくれるわけではない。これじゃあ誰も、幸せにはなれない。
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