私は暑いとつぶいた。今私がいる自分の部屋は冷房が効いていて、実際は快適な温度に保たれている。けれど、窓を閉め切っていても聞こえてくる蝉の声を聞くと何故かねっとりとした夏独特の空気に包まれているような感じがするのだ。

夏休みも8月に入った。三年生であるから受験勉強に集中するため、課題もない。一応、予備校に通い始めたが、家にいる間はどうも勉強する気にならなかった。ベッドの上でごろりと寝返りを打ち仰向けになる。白い天井、そこに浮かび上がるのは箱根の山をなりふり構わず全力で駆け登る緑色の髪の彼、私の好きな人。インハイ出るから見に来いと言われた時は嬉しくて舞い上がった。巻島のことが好きだったけれど、それを伝えることは出来なくて、部活を見たいなんて図々しいことは言えなかった。初めてだったのだ。巻島の走りを見るのが。あの日、山頂で負けてしまったけれど、全てを出し切ったような、すっきりした表情をしていた巻島は私に気付くことなくトップを争っていた人共に下っていった。初めて見た漕いでいる姿も、表情も、何もかも未だに忘れられなかった。ふと、隣に放り投げておいたスマホが着信を知らせた。田所と見慣れた名前が表示されたので特に何も考えず、画面をスライドして電話に出た。
「もしもし」
「あ、おう。みょうじか!?お前聞いてたか!?」
まくしたてるように大声で話す田所に思わずスマホを耳から離した。
「いきなり大声出さないでよ、もう。てか私巻島から連絡なんてきてないよ」
「やっぱり…。巻島、今日これからロンドンに留学しちまうんだってよ!!」
「え…?」
田所の大声も気にならなかった。
「だから、アイツ今日の夜の便でロンドンに行っちまうんだ!俺らも今聞いて……」
手は無意識に通話終了ボタンをタッチしていた。手が震える。画面には電池残量が少ないことを知らせるメッセージが表示された。
小刻みに震える体とは対照的に頭は冷静だった。気が付いた時には着替えて、スマホとスイカと財布を持って家を飛び出し、電車に乗っていた。空港まで一時間半ほど。ギリギリ間に合うか。スマホに時計と流れる景色を交互に眺めるだけの時間はとてつもなく長く感じた。

空港に到着した時ちょうど五時を告げるチャイムがなった。間に合ったようだ。空港に飛び込むとひんやりとした空気が私を包んだ。夏の日差しの中を走ってきたから暑くて汗も出てるのにその冷たさは全く心地好くなかった。ぶるりと一つ、身震いをする。
私はすぐにスマホを取り出して巻島に電話をかけた。巻島から何番ゲートかも聞いていないことを思い出したからだ。5回目のコールで巻島は出た。
「もしもし」
「巻島」
「電話なんて珍しいっショ。どうした?」
「私、今空港にいる」
巻島は一瞬沈黙した。彼の色っぽい目がわずかに開かれる様子が手に取るようにわかる。
「空港にどこっショ」
「入り口の近く」
「そこ動くなよ!」
そう言って巻島は電話を切った。私は身体を縮こませて巻島を待った。おそらく彼は走ってきてくれるだろう。いつもぶっきらぼうで口下手だから、なかなか気付かれないけれど仲間思いでとても優しいから。

「みょうじ!」
巻島の独特な声が聞こえたと思ったら、大好きな緑色が見えて胸が高まった。額にうっすらと浮かぶ汗。あぁ、やはり走ってきてくれたのか。
「巻島。突然ごめん」
「田所っちか」
私は黙って頷いた。そこから沈黙が流れる。話したいけれど、少しでもいいから一緒にいたいという気持ちが邪魔をして言葉を発することはできなかった。だって私は友達の一人で、こういった場面でかけられる言葉なんて決まっている。その言葉を言ってしまったらもう巻島は振り向いてくれないだろう。
「そろそろ時間だから」
沈黙を破ったのは巻島だった。ちらりと腕どけに目をやる。その途端、私の中に何か得体の知れないものが流れ込んできて、
「巻島、あのね、」

「みょうじ、元気でな。幸せになれショ」

すぐそこまで出かかった片想いを私はごくりと飲み込むしかなかった。今まで感じたことのない酷い苦味が口の中に広がった。
「巻島こそ。またね」
「…ショ」
巻島は振り向かなかった。
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