※東堂に恋人が居ます。 たった数十秒前まではあんなに晴れていたのに、突如として灰色に上書きされた空模様。 厚ぼったい雲の隙間から振ってきた水の槍が地面に身を叩きつける様が恐ろしくて、急いで付近のバスの停留所に身を匿った。 春先といえど、膝丈のスカートから晒した生脚に触れる空気はまだ冷たさを備えていて、体温が下降していく。 (……どうしよう) 寒さに耐える中、雨はなかなか止む気配を見せない。このまま待つのは時間の無駄か。いっそのこと濡れるだけ濡れて、とっとと帰ってしまおうか。 俯きながら、どうしようかと途方に暮れていると、大きな影に全身を覆われた。顔を持ち上げてみれば、隣のクラスの男子が開いたままの透明傘を私の頭上に掲げ、立っていた。 ――雨の日は好きだ。雨そのものではなくて、雨の日にあの何の変哲もない透明傘をさして外を歩くことが、好き。 中学生の頃、にわか雨に遭遇した時に、たまたま鉢合わせした好きな人がくれた大切な大切な透明傘。 そのことを知らずに、たったの千円ぽっちで可愛い傘が買えるのにと言って笑う友達はみんなカラフルで水玉やお花なんかの模様が散りばめられた華やかな傘を持っているけれど、私はコンビニで五百玉さえあれば買えてしまう、あの傘がお気に入りなのだ。 「すごい雨だな、外。みょうじさん、傘は持ってきているか?」 今はもう二人きりの部室。 窓の向こうを指差して、東堂くんが驚きの色を示している。付け加えられた気遣いがとても温かい。 「うん、ちゃんと持ってきてるよ」 「それなら良いんだ」 東堂くんは大丈夫?と聞かないのは、故意だった。部活が終わるこの時間になるとやってくる、東堂くんの恋人。雨の日、彼の傘の在りかはいつだって彼女の元。 私はそれを知っている、二人が相合傘をしている現場には何度も何度も立ち会っているから。 「それじゃあ私、先に帰るね。また明日」 「ああ、気をつけて帰るんだぞ!雨の日は滑りやすいから足元に注意して、それから冷えるだろうから帰ったらすぐに風呂に入った方がいい。あと、」 「あはは、分かった分かった」 お迎えが来る前に私はいつも席を立つ。悲しい現実と、なるべくなら向き合いたくない。 そんな私の心境なんて知らない東堂くんは太陽みたいな笑顔で手を振って、いつだって優しく逃がしてくれるのだ。 透明傘をさし一人で校門に向かう途中、通りかかった昇降口前に見覚えのありすぎる女生徒の姿が見えた。 ……何のために一足先に部室を出たというのか。できる限り視界に入れたくないその少女は、東堂くんの恋人。 慌てて目を反らそうとしたところ、彼女の背後からこれまたよく見る三人の派手めな女生徒が出てきて、傘をささんとしている彼女の手からそれを奪って、付近にできた泥が混ざった水溜りに放り投げた。 三人は顔面神経を凝結させる彼女を嘲笑し、自分たちはぬくぬくと色彩鮮やかな傘を開いて走り去っていった。 ――因果応報というやつだと、私は思うのだ。 あの三人組は毎回レースに応援に来るくらいの東堂くんのファンで、他にも彼に想いを寄せる女の子はわんさか居る。 選ばれし一人になってしまったならば、多くの女子を敵に回すことになると、そんなことは分かりきっていたはず。 それを承知の上で東堂くんと付き合っているのだろうから、私は彼女に同情なんてできないし、ましてや助けてあげたいなどという考えは砂塵程度も湧かない。 陰鬱な面持ちで唇を震わせている彼女は、それでも東堂くんの前では絶対に泣かずに、気丈に振舞っている。 今回だってそう、きっといつものようにそうやって、その場しのぎの笑顔で誤魔化すのだろう。 ……知らせるなら、助けを乞うなら、今の内なのになあ。あとあと知っちゃってショックを受けるのは、東堂くんなのになあ。 東堂くんに悲しい顔なんてしてほしくないなあ。 ふと、私は部室に忘れ物をしたことを思い出して前進を止めた。 どうしようか、諦めようか、五秒くらい悩んだ末に、重たい足にムチを打って部室へと引き返した。 扉を開くと、さっきと変わらない位置に立ったままの東堂くんが出迎えてくれた。 「む、どうした?」 「忘れ物しちゃった」 「みょうじさんはうっかり屋さんだな!」 ロッカーを開いてしゃがみこみ、荷物の小山に両手を突っ込んだ。 林檎の爽やかな香りがする制汗スプレー。そういえばこれ、東堂くんが良い香りだなと褒めてくれたからリピートを決めたんだっけ。 頭上にぶら下がる水色のパーカー。そう、これも東堂くんに淡い水色が似合うって言われて選んだんだった。 袋に詰まった女子力低めの渋いお煎餅。実はあんまり好きじゃないけど、東堂くんが前にやたらと薦めてきたから買ってみたやつ。 東堂くんとの思い出に浸りながら、きっと彼女の姿をいち早く拝むために窓の外を眺め続けているのであろう彼に、背中を向けたまま言葉を紡いだ。 「そういえば私、今日折り畳み傘持ってきてたから、そこにある透明傘持っていっていいよ」 「…それには及ばない!なぜなら、」 「あの子も傘なくて困ってるところだから、早く昇降口に行ってあげて」 「いや、だって今朝学校に来るときは」 「東堂くん」 好きな人に、少しでも近付けたら。東堂くんの力になれたら、そう思って、私はこの自転車競技部のマネージャーに志願した。 当然ファンの子からは多くの嫌がらせを受けた。――だけれど私は踏ん張った。 東堂くんの傍に居られるのならと、同じように彼に好意を抱く彼女たちの思いを甘んじて受け入れて。 彼への想いだけを石杖にし、彼への想いを誰にも告げぬまま一人きりで温め続けて、どれだけの弊害にだって屈せずにひたすら彼の近くに居座った。私の存在を強く強く、彼の意識に刻みつけるために。 それでも。どれだけ頑張っても、私の片想いは報われなかった。だからこれは、今からあの子の秘密をバラすのは、東堂くんを守るための嘘がとても上手で、私が欲しかった東堂くんの隣を簡単に奪ってしまった彼女への、単なる腹いせ。 「何か隠してることがないか聞いてみるといいよ、あの子に」 「彼女がオレに隠し事なんてありえんな!オレはあの子の誕生日はもちろん出生時間、産まれた病院、名前の由来、爪の形、つむじの位置、」 「さすがだね!じゃあ、あの子が今月何回上履き買いかえてるかも知ってる?」 「…え?」 「教科書やノートのハンパじゃない書き込みの数、ゴミ箱みたいになってるロッカーの散らかり具合とか」 「……」 「体操着がいつも足跡柄だったり、鞄の中をジュースでよく水浸しにしてることや、時々制服の背中にチョークで刺繍されたオシャレなロゴが入ってることだって」 「……誰がそんなことを?」 「これ以上は本人に聞いてあげて」 傘ありがとう、静かにそう言った東堂くんが出て行く気配を感じ取って、深い溜め息をひとつ押し出した。 ――「この傘をプレゼントしよう!」眩しい笑顔に、思わず目を細めた。距離だって思いのほか近くて、弾かれたように一歩後退する私に、お構いなしと彼はまたその距離を埋めた。 まだ空間に余裕のあるサブバッグに、ロッカーの中に眠っていた東堂くんとの思い出をしまってゆく。 ――「あなたはどうするの?」射抜くような眼差しがまともに受け止められなくて、目線を斜め下へと逃がした。「なに、気に病むことはないさ!女性が困っていたら手を差し伸べる美男子、そして文字通り水も滴る良い男、それがオレだ!」 制汗スプレーも、水色のパーカーも、お煎餅も、明日になったら全部別物だ。 ――恥ずかしげもなく声高々に宣言し、私に傘を押し付け豪雨の中を駆けていった彼の後姿。胸の中に生まれた感情が恋心というものなのだとすぐに気付いて頬を赤くしたあの日が、とても懐かしい。 全部全部バッグに詰めて立ち上がり、窓辺に歩み寄る。硝子越しに広がる景色に混ざって、私の大好きだった透明な花が咲いているのが見えた。 ――あの時、雨を恐れずにさっさと帰っていれば良かったのだ。そしたら、きっと今日になって濡れて帰るなんてことにならなくて済んだのに。 馬鹿なことをしたなあ。知らない振りしてれば良かったなあ。でも、そんなことしても東堂くんが私の気持ちに応えてくれることはなかったんだろうなあ。三年近く傍に居たのに好きになってもらえなかったんだもん。悔しいなあ、寂しいなあ。あーあ。……あーあ。 |