逃避行 | ナノ
「……ありがとう、送ってくれて」
靴を履いてそう言った彼女に、「いや、俺が勝手にそうしただけだ」と返せば少しだけ顔をしかめられてしまった。ああ、言葉が足りなかったか。恐らく皮肉として受け取られてしまったのだろう。
「すまない、そういう意味ではなく…」
「あーいや、大丈夫分かったから。ありがと」
流石トップとでも言おうか、彼女は俺の反応を見てすぐに理解したようだった。素晴らしい国語力だ、と口にすればまたこれも間違って伝わるのだろうか。踵を返した彼女の背中を見つつ下らない考え事をしていれば、彼女は突然立ち止まった。
「私がああゆうことしたり死にたいとか言ってる理由ってさぁ、柳くんみたいな人にとっては気安い程度かもしんないけど、私みたいな人にとっては違うんだよ。なんていうの、価値観の違い?」
「…気に障ったか?」
振り向いた藍川に怒っている様子はなかったが、何故かこちらを見つめてくるその目に恐怖に似た何かを感じた。何だ、これは。
気付かない内に開眼していたのだろう、俺を見た彼女は心底おかしそうに笑って言った。
「ごめんごめん、違うんだ。ただ、柳くんはこれ以上私に何もしない方がいいよ」
「何も?」
「話したりとかするのは勿論構わないんだけど。なんていうか、今日みたいに優しくしたり?とかそういうの。柳くんが得することなんて何もないし、ていうか正直言って私もしてほしくないし」
「…分かった」
「うん、何かごめんね。包帯は本当にありがとう。また明日ね。」
ひらひらと手を振る藍川は端から見れば普通の少女だ。しかしその奥には無数の傷をその体と、そして心にも負っているのだろう。
妙に饒舌だった彼女の言葉とあの目の裏にあったものを考えながら、俺もテニスコートへ歩き出した。