夏の青さと洒落た町並みに似合わない、黒いコートを身にまとった青年は自分と正反対な白い小さな家の前で足を止めた。彼を知る人から見たら似合わないと誰もが口を揃えて言うだろうが、誰が何と言おうとここは臨也の住居なのだ。
玄関扉の横に小ぢんまりと立つ白いポストには、シンプルな白い封筒が一枚佇んでいた。
『折原臨也様』
成人のものとは思えないへたくそな字は昔からすこしも成長していない。裏面には中学時代からの友人の名。ああ、もうそんな頃合いだったか。毎月頭に届くその手紙を、臨也は密かに待ち望んでいた。近ごろはいそがしくて、すっかり忘れていたのだけれど。
部屋に入ると臨也は、封筒をデスクの上においてリビングへ向かった。すぐに開封したりはしない。そんなの、待ちきれないほどに楽しみにしていたみたいで悔しいじゃないか。
今日は最近気に入っていた子のおもしろい顔が見られた。とっておきの情報も手にいれた。なにより、彼からの便りがきた。コーヒーに一杯、二杯、ついいつもよりたくさんミルクと砂糖を入れてしまったけれど、そんなことすら気にならないほどに気分は高揚している。
不本意にカフェオレになったコーヒーを片手に、封が開かれるのを今か今かと待ち望んでいる封筒の元へ向かった。

臨也が東京を離れたのは、今からちょうど1年ほど前のことだ。
東京から出ていくことも行き先も、誰にも告げないつもりだった。電話番号もメールアドレスも、今まで使っていたものは全て解約した。新宿から、池袋から、折原臨也の存在を消そうと思っていた。
ただ、最後に一目だけでも、唯一の親友に会っておくのは悪くない。そう思って新羅の部屋を訪れたのが失敗だった。
普段通りに接していたはずが、妙に勘の鋭い友人は、わずかな違い読み取ったのだろうか。結局問い詰められては洗いざらい吐かされ、住所も伝える羽目になった。
もう10年以上も胸の内から消えてくれない気持ちと決別する意味も、いくつかの理由の中に含まれていたのに、寂しくなるな、たまには東京に戻ってきなよ、なんて言われて揺るぎに揺るがされてしまった。

都心ほどではないが、にぎわった土地のはずれの静かな町の小さな家。臨也が移り住んでからめまぐるしい一か月が経過した頃だった。広告やダイレクトメール以外が届くことは滅多にないポストの中に、人の手で書かれた自分の名前はひときわ目を引いた。
まして、学生時代毎日のように目にしていた統一感のない字。
お前の字はへたくそで読みにくい。君だって人のこと言えないじゃないか、女の子の字みたい。
あのころの会話は今でも昨日のことのように思い起こすことが出来る。

1年前にもらった初めての手紙の内容はよく覚えている。何度か読み返していることを除いても、恋人への愛に生きる新羅から便りが来たということはそれなりに衝撃を受けたからだ。
内容はなんのとりとめもない、近況を伝えるだけのもの。
臨也がいなくなってから静雄は大人しいし、池袋は穏やかだ。この間、帝人くんに、最近臨也のこと見かけないけどどうしてるのか聞かれたよ。そういえば、どうしてアドレスと電話番号変えちゃったの、ひどいよ教えてよ。それから今日はセルティが久しぶりに休みで、彼女が料理を作ってくれて、セルティと一緒に録画していた番組をみて、それでセルティは今日もかわいくて素敵でセルティセルティセルティセルティ。
大半は首のない恋人との惚気話だったけれど、彼らしい手紙に、呆れるよりも思わず苦笑がこぼれたものだ。
そして最後にとってつけたように、臨也の近況も聞かせてよ、と返事を促す内容の一文が添えられていた。

2通目以降も、あまり変わらない内容が続いた。共通の知人の話や恋人の話、ときどき昔話が入り混じったりもする。毎回手紙は毎月あたま、いつも同じ封筒に同じ便箋が3枚、内容はくだらない世間話。いつしかそれを待ちわびている自分に気付き苦笑がこぼれた。
もう一生会わないつもりで、捨てるつもりでこの地を踏みしめたというのに、結局心ははつこいとあの街に囚われたまま。

(全部新羅のせいだ…)

自分の意志の弱さをすべて新羅に責任転嫁して、臨也はまだ綺麗な新しい封筒を、破かないようそっと開いた。今日も真白の封筒を開けると微かに彼の匂いがした。それがどうしようもなく彼を彷彿させて、いつも胸がしめつけられるのだ。

ちょうど10通目になるこの手紙たちに、出した返事はゼロだ。書いていないわけではない。最初に手紙をもらったその日から、彼に宛てた手紙を何度も書いては、そっとしまいこんだ。
一度認めてしまえば話したいことはたくさんあって、自分に宛てた手紙の倍の枚数書いていたこともあれば、手紙が来ずとも1週間と開けずにペンをとることもあった。一方、くだらない一文だけの手紙も存在する。
決して他人の―――宛先である張本人の目にも触れることなく蓄積されていく紙の束はもはや手紙とは言えず、むしろ日記のような役割でもあったのだけれど、それでも「新羅への返事」であるという体裁を崩さなかった。

いつも臨也が書きとめた内容は、新羅から送られてくるものとそう変わらない。
最近こんなことがあったよ。池袋はどうだい。君はあの頃と同じ場所で、今、どうやって毎日をすごしているの。
見られるわけでもないのに、本当に、言いたいけれど知られたくない気持ちを書き記すことはできなかった。なぜなら、これは彼へ宛てた手紙だから。
口にできない言葉は文字でもあらわすことができない。くだらないプライドのようなもので、書いたら負けだと思った。もしそれを書いてしまったら、自分自身を制御できる自信もなかった。
だからとりとめのない日常をたくさん便箋に書きとめては、白い封筒に封じ込める。既に、もらった手紙の何倍もの封筒がたまっていた。

10通目も、新鮮味のない文章が3枚にわたって続いていた。同じような話ばかりなのに、彼の手によって書かれたものだと思うとひとつひとつが何故だか輝いて見える。いつもと違ったのは最後に記されていた一文だった。

『いつになったら返事をくれるのかな。僕、そろそろ待てないよ』

視界にその言葉を捉えたとたん、まだ真新しい便箋がくしゃりとゆがむ。
新羅からの手紙にはいつも返事を求める言葉が添えられていたけれど、言わば形式的なものであって、一方的にも見て取れた。純粋に返事を求められているなんて考えもしなかった。
「なんだよそれ……やっぱずるいよお前……」
乾いた笑いとともに零れた言葉は、静まり返った部屋にぽつりと響く。じわじわと全身を侵食するこの気持ちはあのころのままの、ふりはらうことのできなかった己の弱さそのものだ。
深く吸い込んだ息を吐く。おてあげだ。勝ち負けの問題なんかじゃないけれど、きっとこれからも敵わないだろう。

意を決して、いつもと同じ無地の便箋と、いつも手紙を書くときだけに使う黒の万年筆を取り出そうとした瞬間、滅多になることのないインターホンが静寂を打ち壊した。
まさか。そんなわけがない。いくらなんでも出来過ぎている、都合がよすぎる。
けれども昔からこういう勘はなぜか当たるんだ。徐々に加速する鼓動を感じながら、扉を開いた。

「……どうして」
「やあ、久しぶり」

扉の向こうには、あいも変わらず白衣姿の、手紙の差出人が笑顔で佇んでいた。脳裏に過った顔はなぜか確信があって、もしかすると、自分でも気付かない心のどこかで期待していたのかもしれない。
「臨也、なかなか返事くれないんだもの。会いに来てもくれないし、電話番号もアドレスも教えてくれないから、待ちくたびれちゃったよ」
東京からは決して近くない距離なのに。まさかそれ着て新幹線乗ってきたの。普段よく回る頭と口はすこしも機能してくれなくて、どこか的外れなことを考えていた。
「だからね、直接渡しに来たんだ、手紙。」
「……俺が読んでないとか、そもそも教えた住所に住んでないとか考えなかったの」
「ぜんぜん。僕が臨也に手紙を書いたんだから、君はきっとその手紙をこの家で読んでくれている。そう信じてたから何度も何度も送り続けたんだよ、間違ってる?」
あいもかわらず自分中心のその言葉は本来ならばなかなかに腹立たしいはずなのに、裏腹に胸がぎゅうと締め付けられるような感覚に陥る。事実なだけに、口を噤むと新羅は上機嫌そうに、出会った頃と同じ曇りのない笑みを浮かべた。
「ほらやっぱり、ね、楽しみにしてくれていた?」
「ばか、それよりお前すごいタイミングよかったけど」
「あ、逃げたら肯定って受け取るからね」
新羅の笑みが意地の悪そうな笑みに変わる。
「勝手にすれば」
素っ気なく答えると、新羅は満足げに先ほどの質問への答えを返した。
「ちょっとカーテン空いてたから、ほら、臨也がさっき座ってたところのななめ後ろの」
「は、覗き?新羅にそんな趣味があったとは驚きだ」
いくつかの言葉の応酬にだんだん当時のような掛けあいがするすると流れ出てくるようになる。ブランクを感じさせないほどに、互いに1年前と変わらなかった。
「いやあ、君なかなか帰ってこないから、1時間も待ったじゃないか」
「大した時間じゃないだろ」
「そうだね、僕が臨也の返事を待っていた時間に比べれば」
芝居まじりに拗ねた声を出されたら、臨也にはもう降参の道しか残されていなかった。
「悪かったよ、次からちゃんと出す」
「うん、それから番号とアドレスもちゃんと教えること!」
「分かったって」
新宿を出たあの日。今日この日が来ることを恐れる一方で、わずかに期待していたことも否定できなかった。
やはり己の意志の弱さは全部新羅のせいだ。またも責任を眼前で笑顔を向けてくる友人に押し付け、自室に迎え入れる臨也の足取りは、軽い。

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