お医者さんの場合

夕飯を済ませ、セルティと録画していた番組を見てあれやこれやと談笑し合っている幸せなひとときに、その電話は舞い込んできた。
「たすけて新羅、しにそう」
しにそうという割には生気があって、いつもの彼よりはだいぶ低く掠れて落ちたトーンが耳に届く。彼の声と同様に、一気に気分も急降下だ。
「もう、今度は何をやらかしたの、今忙しいんだけど」
「んー、だるくて熱もありそうでさ、風邪だと思うけど結構しんどいから診てくれない?」
それでもこんな声で「おねがい」なんてらしくもなく頼まれたら流石に突き放すことなどできなかった。その程度には僕も友達想いだというのに、臨也は信用してくれない。
セルティに謝り、気にするなと送り出す君はなんて優しいのだと抱きついていたら「いいから早く行け!」と追い出され。埼京線で約五分。普段は山手線を利用することが多いけれど、電話口の声が相当つらそうだったので、たまには友人のために急いで駆け付けるというスタンスをとってみた所存です。
新宿の彼の自宅のリビングへと上がり込むと、臨也は部屋着を着てソファで小さく丸まっていた。臨也。名を呼ぶ声に反応してのそりと身体を起こす。押し付けられていたせいで服の跡が付いてしまった頬は赤く火照っている。
「どう」
「頭と喉がいたい。鼻つまって苦しい、あとはなみず」
「熱は」
「まだ測ってないけどけっこう熱い気がする」
「まあ君、平熱低いからね。七度超えただけでつらいでしょう」
体温計を手渡すが臨也は一向に受け取ろうとしない。目が「やって」と訴えている。
冗談じゃない、自分でやりなよ。平常時なら一蹴してやるのだけど、弱った彼に甘えられるのは嫌いではないので、ついこうして世話をやいてしまう。
パーカーは汗を吸い始めているから通気性のよいシャツに着替えさせなくては。体温計を脇に挟もうとジッパーを下げると楽しそうに「えっち」と避難された。軽口を叩ける元気はあるようで何より。
しかし声はいつもより掠れていて憎たらしさも半減だ。それきり臨也は黙り込んでおとなしくしていた。彼のアイデンティティーとも言える言葉がないとまるで別人のようで少し可笑しい。顔だけは良いのだから、いつもこのくらい静かだったら、まだかわいげがあるのに。
「はい、おしまい。熱は高めだけどすぐに治ると思うよ。いつもの薬出しておくから」
もちろん内科は専門ではないけれど、風邪薬くらいは常備していた。もちろん風邪を診るのは臨也くらいのものなので(もう一人の友人は滅多に風邪をひかないし、ひいても気付かないのだ)、この市販のものよりは効き目の良い風邪薬は実質臨也のために常備されているのだが、臨也は知る由もない。粉薬は飲みにくいから錠剤が良いというワガママも聞いてわざわざ用意してやっているのだから、もっと感謝してほしいものだ。
診察を進めるうちに、臨也の体調は徐々に悪化していた。身体を起こしているのもつらいといった表情だ。終わる頃には熱で顔をほんのり紅潮させ、気だるげにソファに体をあずけていた。診察に使った器具を消毒しておきたかったから、先に寝室に行くよう促したけれど、臨也はまだここにいると言い張って動こうとしない。
「それにしても君、昔はもっとしおらしくてかわいげがあったのに」
仕方なしに気を紛らわせるために昔話を一つ。
「風邪で学校欠席したときに僕が診てあげようかって言っても、絶対に来るなの一点張りだったじゃない。その理由がまた、うつしたら悪いっていうのだから笑っちゃうよね。いつからこんなに図々しくなったんだろうねえ」

あれはたしか中学二年のことだった。風邪で欠席した臨也の家を訪れたらひどく驚かれ、同時に玄関先で追い返されそうになったものだ。
「大丈夫だから、うつるからいいって!」
もちろん貧相な体つきをしていた(今もあまり言えないが)僕よりも臨也の方が力は強かったけど、熱で体力が衰えている同い年の男の、家のドア引き合戦に勝利するのは容易なことだった。
そんな気をまわしていた臨也も、近頃はすこし熱っぽいだとか、ちょっとした怪我ですぐに自宅を訪れたり電話で呼び出したりするようになった。
「新羅が言ったんじゃないか。友達なんだからもっと僕を頼っていいよって」
「多少ニュアンスが違う気がするけど」
「心配してくれないのかい? ひどいなぁ」
「オオカミ少年の原理さ、本当に重症なときに信じられなくなるよ」
もちろんそうは言っても、電話口であんな声を出されたら身を引き裂かれる想いでセルティとの時間を切り捨ててでも駆けつけざるを得ないし、自宅に駆け込んで来られるのも嫌なわけではない。セルティがいない時なら。
臨也もそれを分かっているのだろう。先程までだるそうにしていた彼の顔に笑みが浮かんだことに安堵する。
彼の方に手を伸ばすと、こちらもまた普段からは想像できないような、厭味ったらしさなど一切感じさせない、あどけない表情で見つめてくる。
「まぁ、嘘だけどね」
その顔があの折原臨也と同一人物のものだと思うと、それを見られるのが少し得をした気分で、熱の具合を確認するのを口実に頭を撫でてみた。驚いたようにビクついたのすらかわいく見えてしまい、自分は目の調子でもおかしいのかもしれない。
でも、こんな顔が見られるのならばいつでも駆けつけてあげよう。もちろんいつでもっていうのはセルティがいない時ならね。目だけでなく頭のネジも緩んでいるのかもしれないと、新羅は苦笑をこぼした。

普段ほかの患者のものは記録しないくせに、そのカルテが何を意味しているのかと言えばもちろん友人の健康状態を気遣う心の表れなのだが、なぜか臨也からの信用は薄い。
ほぼ走り書きなので、そう思われても仕方ないという節はある。
きっと他人が見たら何が書いてあるのか解読するのは困難だろう。もともと字があまり上手くない自覚はある。
いまだ寝室へ行こうとしない臨也の、ぐったりと力の抜けた肢体が左半身へ寄りかかっている。ふたりの距離感にしては近すぎる。普段は肌と肌の接触など、治療や診察以外には滅多に起こらない。心身ともに弱っているからこそ成せる状況だと冷静に分析していると、体重のかけられた左肩の重みが急増した。手はだらりと脱力し、目もほとんど閉じていると言っても良い。
衝撃を与えないようそっとカルテを鞄に戻し、いざや、と声をかける。
さほど大声ではなかったと思うけれど、半分眠りに落ちていた彼を驚かせるには十分な声量だったのだろう、ビクリと身体が跳ねた。ああ、汗で前髪がおでこにはりついている。後で濡らしたタオルで拭いてあげよう。
「寝るなら横になったほうが良いよ」
「動くのだるいんだけど」
そりゃあそうだ、九度近く熱があるんだから。
すがるような視線には気付いている。気付かぬふり。
立ち上がり手を差し伸べると、あからさますぎるほどに不機嫌な表情に一変した。全くどうしろと言うんだ、せっかく人が心配してやっているというのに。
差し出したては払いのけられ、仏頂面のまま臨也は立ち上がる。
しかしその瞬間、目の前の身体がガクンと崩れ落ちた。
自分の動きとは思えないほどすばやく、反射的にその身体を抱きとめていた。
「ああほら、言わんこっちゃない」
腕の中の身体は熱くて、こちらの問いかけにも反応はない。呼びかけるとハッと顔を上げ、身体を起こそうとしている。もちろんほとんど力の入っていない状態でしっかりと立てるはずもなく、再び腕を掴んでくる。熱で水の膜のはった双眸がこちらを仰いでは、すぐに視線を泳がせ俯いた。
「挙動不審だけど大丈夫?」
あたまとか。
「う……、熱上がった気がする」
新羅のせいだ。そう虫の鳴くような声で呟かれた言葉の意図するものに初めはピンと来なかったが、先ほどのらしくない恥じるような目線を思い出す。まったく、そこまで仄めかせておいて決して言葉にしないところは彼らしいというか。くだらない、けれどあまりに可笑しくて単純な理由に、笑いが堪えられない。
臨也のくせに隠しておきたい本心を悟られかねないことを口走るなんて、結構堪えているのかもしれない。もちろん普段からあれだけ視線を向けられたら気付くなという方が無理な話なのだけれど。

珍しく素直に本音を吐露するほどに弱った臨也をなんとか言いくるめて、眠らせて一段落ついた頃には二十三時を回っていた。帰宅は日付をまたぐかどうかの瀬戸際だなあと自宅で待つ彼女に思いを馳せる。
それにしても今日の臨也は別人のように素直だった。もちろんひねくれた普段の方が良いに決まっている。世の中には悪いけれど、俺のために。
セルティが好きだ、愛している。今この瞬間も、早く帰って彼女に逢いたくて仕方がない。
でも友人の身を案ずる気持ちも本心なのだ。つまり今の関係をきっと彼が思っている以上に気に入っていて、それ以上もそれ以下もない。
要するに、口の達者な普段の臨也に正直になられたら太刀打ちできるはずがない。
昔から口で臨也に勝てたためしはなく、うまく躱せる自身なんてこれっぽっちもないのだ。
隣で苦しそうに寝息をたてて丸まっている臨也。そうだよあんなの君らしくない、早くいつもの厭味ったらしい笑顔を顔面にはりつけて、人間観察でもなんでもすればいい。そのほうがお互いのため。そうさ、気持ちに応えられないことを正当化しているだけに過ぎない。
そのくせ僕は欲張りだから、彼女しか愛せないくせに、臨也の視線の先にずっとたっていたいんだ。だからそうだね、露骨すぎないように、けれどもぎりぎり君の気持ちが伝わるように。すなわち今までどおり。
それではあまりにも自分本位すぎるから、時には例外があっても良いかもしれない。
一年二一回くらいならこうして俺のことが大好きな友人を甘やかしてあげるのも悪くないかもしれない。

薬袋はベッドの脇の照明の下、時計の横ならすぐに気付いてくれるだろう。
一言、自分なりの愛を書き添えてそっと部屋を後にする。
さぁ、愛しの彼女の待つ家へ帰ろう。

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