「気持ち悪い」
離れた体温の持ち主はそう言って枕に顔を埋めた。ふわりと彼が沈み込んだそれはホテルのものにも劣らない高価なものだということを、以前臨也は何でもないことのように話してくれた。
友人としても医者としても具合が悪いのかと心配するところなのだろうけど、具合が悪いときの臨也はこんなふうに素直に助けを求めたり愚痴をこぼしたりしない。なによりその原因が体調不良ではないことを、これでもかというほどに身を持って僕は知っている。
「君がつけなくていいから出してって言ったんじゃないか」
それはもう、自業自得しか言い様がない心当たり。下着を身につけながら僕は言う。会話の内容は包み込むような優しさが売りのオーダーメイドの枕にはまったく似つかわしくなかった。恋人でも好き合っているわけでもないただの同性の友人との数ヶ月に一度の逢瀬には、安っぽいホテルのかたい枕がお似合いだ。
「そういう気分だったけど」
もごもご。枕の中からくぐもった声が聞こえてきて、苦しくなったのかすぐに枕に頬を付けるように顔を上げ、とろんとした瞳がこちらを向いた。
眠たいの、と聞こうとしてやめた。以前同じことを聞いて、察しろよ、と叱られたことがある。
「良いものではないよね。してる最中はさ、気持ちが高揚しちゃってそれが最高に気持ちよかった気がしてくるんだって」
「どうでもいいし知りたくないなぁ」
「君のこと褒めてるつもりなんだけど」
「それはどうも。先にシャワー浴びてきたら? お腹壊すよ」
「好き勝手しておいて、出すだけ出したら放ったらかし? 嫌な男に惚れちゃったなぁ」
どうやらしばらく動くつもりはないらしい。事が終わってしまえば早く帰りたいのが本音だったが、もうとっくに電車も眠りについている時間だ。強制お泊りコースが確定している。
優しくて純粋な僕の好きな人は、遅くに急患が入って、実はその急患は臨也なんだけど怪我は大したことなくて、手当てしたり話し込んだりしているうちに終電を逃してしまって、親しい友人の家にいるのにこんな時間にわざわざタクシーを呼んで帰ることもないかと思って泊めてもらうことにした、って話をなんの疑いもなく信じてくれちゃうのだ。
そもそも僕の愛しの女性は今日も帰ってくる予定はないから、持て余した時間をつぶしついでに己の欲を満たし、セルティと会えないさみしさも一割くらいは埋められる行為に励んでいたわけである。
「一緒に入ってあげようか」
僕がにやりと笑うと、一瞬呆気に取られたように間を置いてから、相変わらず眠たそうな目をしたままの臨也も口角を上げて笑った。
「やだよ、気持ち悪い」
もちろん僕だって絶対に嫌だ。あまりせっつくとまたデリカシーが無いと怒られたり、そんなに俺の相手が面倒ならもう来なければ良いだろって拗ねたり、俄然面倒な自体になることを知っている僕は、諦めてベッドから立ち上がる。
「先にシャワー借りるよ。すぐ出てくるからそのまま寝ないでね。風邪とか引かれたら面倒だし」
あと、お腹痛いのを僕のせいにされるのが目に見えてるし。
戻ってくる頃には普段の調子に戻っているといいなぁと思っているはずなのに、立ち上がった僕の腕をとりベッドに連れ戻すという、臨也が珍しく見せる甘えに妙に嬉しくなってしまうのも事実だった。いつまでたってもおそらくたった一人の友人であろう僕にも心を開かないくせに、こうしてときどき肌を合わせたときに限って恋人にするように甘えてくる。
「今日はやけにしおらしいじゃないか。何かあった?」
「別に、何もないけど」
どうせ帰れないのなら気まぐれにこうして隙を見せる友人にとことん付き合ってやろうじゃないかと隣に寝転んだ。
臨也は満足げに笑い、ふわっふわのをダウンケットを手繰り寄せる。二人で使うにしては小さいそれにもぐりこむと、臨也は額をぐりぐりと目の前の僕の肩へ寄せる。こういうところはなんだか猫みたいだ、と思った。僕に対してはそうじゃないけれどいつもよからぬことを考えている彼が横切るとたしかに不吉なことが起こりそうな気がするし、死に際にはすっと姿を消しそうな質だ。セルティもしなやかな肢体にかわいらしい猫のヘルメットだし、もしかしてネコ科が好みなのだろうか。そういえば子供の頃から動物には好かれやすい。
週末の深夜、濃密なひとときを過ごした僕らの身体はくたくたで、気分はそれなりに満たされ、このまま眠ってしまってもおかしくない。僕は臨也にとやかく言う資格はないのかもしれない。
「ねぇ、これ寝ちゃいそうだよ。先にシャワー浴びない? 帰らないからさ」
というより、君が遅くに呼び出したせいで帰れないんだけど。
「んー、もうちょっとだけ」
さては最初から泊まらせる気だったのかもしれない。僕にもなかなか本音を聞かせてくれない彼に何かあったのかは分からないし、ほんの気まぐれかもしれない。彼の情報収集力からしてみれば彼女が帰らないことで僕が時間をもてあましていることを把握していたっておかしくない。
「明日お腹痛くなっても知らないからね」
「新羅、お母さんみたいだよ」
くすくすと臨也が笑う。彼の見せる表情の中では珍しいほうだけど、僕の前で見せる笑顔の中ではよく見るほう。これはちょっとした僕の自慢だったりする。
そんな無邪気な子供みたいな表情のままで臨也は言う。
「ほら、このまま子どもができればいいのになぁって思ってさ」
おや、すごいことを言い出したぞ。
「怖いこといわないでよ」
そもそも君、妊娠できないけどね。
子宮なんて入っていないお腹をさすりながら臨也はいつもよりすこし幼く聞こえる調子で続ける。
「だって俺、新羅の子供ってどんな子になるのか興味あるなぁ」
「あぁ、そういう……。 びっくりしたなぁ、既成事実とかいわれるかと思ったよ」
そもそも君、妊娠できないけどね。
「新羅のことは人間としても友達としても好きだけど、君と生きたいと思ったことはないから安心してよ」
「よかった、俺のせいで友人が精神を病んだとしたら流石に責任を感じちゃうからね」
いや、当たらずとも遠からずというか、全く心当たりがないわけでもないからこうして彼の遊びに付き合っているのだけど。
「好きな人とのこどもなら大歓迎なんだけどなあ」
「あの人、子供産めるの?」
臨也は本当の子供だった頃から僕の好きな人のことを知りたがったけど、結局いまだに詳しいことは知らないらしい。当然だ、僕が教えていないのだから。個人的な接点も今のところない。ときどき臨也が家に来たときに顔を合わせる程度で、彼女が臨也の愛する人間ではない何かであるということには気付いているようだ。気を付けてはいるけど、記憶にないだけでもしかしたらうっかり臨也の前でセルティの名前を口走っているかもしれない。もちろん自信はない。
「どうだろう。昔解剖した父さんいわく内臓は一応あるけど機能していないに等しいって。でも愛の力で奇跡が起こってできるかもしれない」
「現実見なよ。そもそも、もう何年も新羅の一方通行じゃないか」
「そりゃあ僕、こどもだからね。でももう成人したし、最近ようやく大人として見てくれるようになった気がする」
「それはよかったね。でもね、現実的な話をしよう。身体の構造が人間と違うなら子供はできないだろう?」
君の身体の構造も妊娠できないけどね。
「新羅の遺伝子が途絶えちゃうのもったいないよ」
「なんだそれ。子供を作らない人なんていまどき珍しくもないだろう?」
まぁ、臨也も僕の好きな人もこどもは出来ないし他の女性とこどもを作る予定もないから、結果的に僕の遺伝子はここで途絶えてしまうのだろうけど、今日の僕は機嫌がいいから臨也のくだらない「もしもばなし」にしばし付き合ってあげることにした。
どうしてかって、もちろんついさっきまでの臨也の鳴き声がかわいかったからとか、クーラーの効いた部屋でぺたりとくっついたすこし汗ばんだ肌が意外と悪くないからとか、そんな些細なことのつみかさねだ。
「そうだね、まず顔は男の子でも女の子でもとびきりかわいい子がうまれるだろうね。君は容姿だけはいいし」
「お褒めの言葉をありがとう」
臨也は一瞬きょとんと驚いたように固まってからけたけたと声を上げて笑った。
いくら人間に興味がないからといって、人間の顔の美醜くらい判別はつく。初めて彼を認識したときも、きれいな子だと思った。声をかけようと思ったものの名前を覚えられず(自分のことを棚にあげて、変わった名前だと思った記憶はある)、クラスでいちばんきれいな男の子、として覚えていたくらいだ。
「ま、新羅もいいほうだしね」
「そうかな?」
「自覚ないの? 俺、新羅の顔けっこう好きなのに」
「そうなの? 初耳だなぁ。俺も臨也の顔は好きだけどね、君のきれいな顔が僕の下で歪むところとか」
「変態」
さっきまでの蕩けきった表情に僕の名前を呼ぶ掠れた声をのせて首に腕を回してきた彼も、こうしていたずらっこのような笑顔で悪態をつく彼も、どちらもいつもの飄々とした態度や嫌味な笑顔とは別人のよう。こういういろんな表情を見せてくれるから、まったく臨也と寝るのはやめられない。
「他には?」
続きを促す臨也はいつもの調子と変わらないのに、その甘く掠れる声が行為の名残を感じさせる。
「ん、こどものはなし? そうだね、きっと勉強もできるほうだよね。君も僕も学校の成績はいつもよかった」
「そこは君に似るといいね、俺はただの気まぐれで白紙で出したり、わざと的外れな答えを書いてみたりするし」
臨也の言葉で思い起こされるのは出会って間もない頃の記憶。
僕らが中学生のころ、テストの点数や成績表の数字を競いあっていたにも関わらず、普段はきちんと宿題を出して指名されてもすらすらと答えてみせた英語や数学のテストを「先生がどんな顔するかなって思ったら我慢できなかった」とかいうくだらない、彼にとっては大事な理由で名前しか記入せずに提出していたのを思い出し、懐かしさに浸ってしまう。
「それは生まれもっての性格とか、育て方によるんじゃないかなあ」
「じゃあだめだ、俺も新羅もとてもじゃないけど性格はマトモとはいいがたいし、俺を見て育った妹たちがアレだからね」
妹に関しては完全に彼女らの成長過程において臨也が余計な口出しをしたせいだと思う。僕については閉口するしかない。
「それにしても、君が子育てするの想像できないなあ」
「新羅の子供を俺が育てたらどうなるんだろうね。やっぱり同じように君の好きな人のような生き物に惹かれるのかな? それとも俺みたいに人間に興味を持つのかな。あぁ、でもどちらかというとまったく赤の他人に育ててもらうか、俺と血のつながってない新羅の子どもを俺が育ててどうなるかのほうが興味はあるね」
「人の子供を実験体にするのって人としてどうかと思うよ」
実の妹でさえ彼の観察対象となるのだから、臨也にとって血のつながりなど些細なものなのかもしれない。もちろん身内というだけあって妹たちの前では臨也が外で大衆を相手にするような気取った態度を取ることはないみたいだけど、それとこれとは話が別なんだろう。
「ちなみに僕の子供である必要性は?」
「新羅がいいんだよ。君の遺伝子が欲しいんだ」
「さっきから何なんだい、遺伝子って。君に一般論を求めてはいないし求められても困るんだけど、それは一般的な女性が好きな人の子どもを産みたいと思うのとは違うんでしょう?」
「そう。俺は君の遺伝子を孕みたいんだよ。新羅は俺が出会った人類の奇跡だからね」
「買いかぶりすぎだよ。僕はごく普通の、君が愛する人間を構成する一員だよ」
「この地球上にはすばらしい人間が七十億人もあふれているというのに、君みたいに恋愛対象に人間じゃないなにかを選ぶ変人がごろごろいてたまるか」
「世界中を探せば他にもいると思うけど……」
何せネブラの研究員である父さんの話では人間と吸血鬼が共存している島があるらしいし、人間に混じって暮らしている異形もいるそうだ。
そんなことには興味のないらしい臨也はころりと態度を変えて、僕とありもしない愛を確かめ合う行為のまねごとをしているときのような甘ったるい声で言うのだ。
「もちろん何より愛して大事に育てるよ、人間としてじゃなくて我が子としてもね」
「今の話の流れで説得力なさすぎるんだけど」
そういう声で数多の人間たちを誑かしてきたんだろうけど、僕はそうはいかない。
「ほんとほんと。だって俺、新羅のこと好きだからね。ほら、君と血がつながった子どもがほしくなっちゃうくらいに」
ふいに臨也は僕の上に乗り上げると数分ぶりに唇を合わせる。もしかして僕は今、愛の告白をされたのかもしれない。プロポーズとも取れるその言葉とすこしかさ付いた唇に、ふとそんなことを思った。それから不穏な空気を断ち切るために、何十回と心の中で繰り返した言葉をようやく声に乗せるんだ。
「まぁ、君、妊娠できないけどね」
「そうなんだよ、残念だなあ」
そういって笑う臨也はすっかりいつもの臨也でちょっぴり寂しくもあった。

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