「新羅、見てよこれ」
緩みきった顔で携帯電話に向かって一生懸命文字を打ち続ける新羅を呼ぶ声は、数時間前と比べるとすこし掠れていた。まったく、失礼なものだ。ものの数分前まで甘いひとときを過ごした相手と同じベッドで過ごしているというのに、事が終われば態度は一変して、もう他の相手を見ているのだから。いや、一変して、と言うには語弊がある。なぜなら今もニヤニヤしながらベッドの上をごろりと行ったり来たりしている男は、最中も臨也のことなど見ていないに等しいからだ。
「なに、いま忙しいの、返信するまで待ってよ。ただでさえやる前に送ったメールの返事、1時間以上待たせてるんだから」
目線すらも寄越そうとしない新羅の態度にはもう慣れたものだ。中学時代に戯れに始まったこの関係は、気付けばもう5年は続いている。その行為にもちろん深い意味などなく、好奇心や性欲の延長線上で今日もこうして身体を重ねた。本当にそれ以上の感情が全く無いかと言えば嘘になるが、この気持ちにつける名前を臨也は知らずにいる。
ふんだ。ムードもへったくれもあったものじゃない。先程までぱらぱらと眺めていた雑誌を放り投げ、ぼふんと柔らかい布団に沈み込んだ。臨也の視線に気付いているのかいないのか、新羅は睨めつける臨也の視線をものともせず小さな画面に夢中で文字を入力している。
ハートマークたっぷりのメール画面から「送信しました」という文字に変わったところで、ひょいと携帯電話を取り上げると、新羅はそれを目線で追ってから「仕方ないな」というように苦笑して臨也の方へ向き直った。メールをうち終わるのを待ってやっただけありがたいと思え。
「今日は随分と構われたがるんだね、何かあった?」
「話、聞いてなかっただろ」
新羅が柔らかい髪に指を通せばさらさらと流れ、臨也は悪態を付きながらも、その心地よい手のひらにうっとりと目を閉じた。
「これ」
指差した先にあるのは、先ほど臨也の八つ当たりの標的となってしまった、かわいそうな情報誌だった。月に一度発行されるそれは季節ごとのオススメ観光スポットや宿泊施設が掲載されており、長年そこそこの売り上げを記録している。なぜ臨也がそんなものを持っているのかと言えば、お盆に海外の仕事から帰国していた両親が久しぶりに家族で出かけようと意気込んでいたせいだ。妹ふたりと雑誌を眺め、ここに行きたいあそこに行きたいと議論したことは記憶に新しい(といっても臨也はどこでも良かったので、主に小学生の読めない漢字を読み上げていただけなのだが)。結局軽井沢に二泊したという話はさておき。
「うわあ、すごいね。日本にもこんな場所があるんだ。彼女に見せたら喜んでくれるかな」
乱雑に乱れたベッドの隅に追いやられた雑誌を手繰り寄せる。ふたりうつ伏せに肩を寄せ合いシーツに包まって、関東甲信越夏の観光スポットベスト10のページをはらはらと捲った。
臨也が初めに見せようと開いた場所は、池袋から電車とバスを乗り継いでおよそ二時間半。日帰りも難しくないけれど、高校生の急な思いつきで行くには遠すぎる、そんな場所だった。
広大な自然に蒼くひろがる空は、何も知らない人が外国の自然遺産だと言われれば信じてしまうだろう。
「俺は高層ビルとネオンばかりの街のほうが、人が溢れていて好きだけど、都会暮らしだとたまにはこういう場所も悪くないよね」
「あれ、先週軽井沢行ったって言ってなかったっけ」
「ああうん、なかなか良かったけど騒がしいのが二匹いたから、あんまりゆっくり出来なかったし」
「元気だよねえ、彼女たち。というかきみ、人がいないところなんて行ったら死ぬんじゃないの」
「はは、それはそうかも」

彼女に見せたら喜びそうだ。新羅はそう言った。きっといつか想いが通じるであろうときには、二人でこの場所に行くのかもしれない。なんてこった、これではデートスポットを提供しただけじゃないか。もちろんこんな行為を続けているとはいえ、愛だの恋だのそんな甘ったるい感情など抱いていない。だからといって本当に、なんの情も持ち合わせていない相手に抱かれることが出来るかと言われれば答えはノーだ。残念ながら臨也の人間愛は性的欲求には繋がらないし、そもそも人間の様々な面を見たいという点以外に関しては、基本的に欲は薄い方だ。彼女の話題になるのは目に見えていたにもかかわらず、雑誌を見せた自分が愚かだった。
ぽふん。ふかふかの枕に顔を埋めると新羅の匂いがした。シャワーを浴びているあいだにまた勝手に使ったな。嫌なわけじゃない、むしろこの香りに包まれて眠りにつくのは心地よいほどだ。このまましばらく消えなければいいのに。

新羅はしばらく雑誌のほかのページを眺めていたが、満足したのか飽きたのか、臨也の頭をオモチャにし始めた。
「……くすぐったいって」
嫌でもないのに形ばかり否定の態度をとってしまう自分は、まったくどうしたものだろうか。新羅はイヒヒと悪戯っ子のように笑って、それから瞳をきらきらと輝かせて言った。
「ね、いつか一緒に行こうよ」
戯れに吐き出された本気とも冗談とも取れるその言葉に、息が詰まる。
「……うん、行けたらいいね」
うれしいと思ってしまう自分を否定できず、そう答えてしまった。
嘘でも構わなかった。冗談でもよかったんだ。叶うはずのない約束をとりつけて、夢を見た。もちろん本当に叶ったら、一緒に行けたのなら、それ以上の幸せはないけれど。そうでなくてもよかった。一緒に行こうか。嘘でも叶わない夢でも、その言葉が嬉しかった。
「……あ、ごめん。彼女帰ってくるみたいだから、俺も帰るよ」
偶然にも臨也の気分を高揚させることに成功した新羅は、一昔前のヒット曲がメールの受信を告げた携帯電話を確認するとそう言って、更には鼻先にキスを落として立ち上がった。新羅にしては上出来じゃないか、と上目線で評価してから、臨也はひらひらと手を振った。彼の急な行動にはもう慣れっこだ。
「ん、またね」
「夏休み中にもう一回は来るよ。またメールする」
いつもののんびりとした動作からは想像できないほどにてきぱきと身支度を整えると、新羅は名残惜しむ臨也など知ったことじゃないと言わんばかりに、振り向きもせずに臨也の部屋をあとにした。

高校生活最後の夏の出来事だった。


この関係が始まったのは、中学2年の夏休み。ほんの少しの好奇心と、それから健全な男子中学生の自然な欲求。身体だけの付き合いとはよく言ったものだ。学校では普通の友人関係を装っておきながら、一歩外に出れば友人というには近すぎて、恋人というには遠すぎる位置に落ち着く。いや、一緒に出掛けたことなんて数えるほどしかないから、いっそ友人と称することも躊躇われる。
だから、叶うはずがないんだ。
あれから何度も同じような約束をした。あるときは観光地、あるときは水族館、またあるときは池袋にできた洋食屋。はりぼての約束がいくつも降り積もり、果てには埃までもがどんどんつもって、霞んでいく。
新羅は最愛の女性にあのときの景色を見せてあげたのかもしれない。臨也はもちろん、どの場所にも言ったことはなかった。そこに行きたかったわけじゃないから。新羅と一緒に見たいと思ったから、あいつがいないと意味がないんだ。いいや、一緒ならどこでも良かった。人工的な自然しかない都会でも、見慣れた自宅でも、地獄の果てだっていい、二人だけがよかったんだ。それこそ、叶うはずもない。

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