「愛してる」なんてそんな安っぽいセリフをいうつもりはない。 せいぜい憎んでくれ。 この不甲斐ない男を、父を。 三味線の音が優雅に響くのを聞きながら、総悟は漆で塗り上げられた真っ赤な猪口を傾ける。 熱い喉を流れ落ちる、思考を狂わせるだけの水を最早美味とさえ思わなくなっていた。 傍らに置いた遊女は、無くなった猪口に酒を注ぐだけの機能しかない。 明らかに飲みすぎている男に対し、抑制する気なんてない。 ただ、差し出される真っ赤な器に、同じくらい真っ赤な紅を塗った唇を吊り上げて、透明な液体を注ぎ込む。 これは、一種の勝負だと総悟は思っていた。 女は男が破壊するまで酒を注ぎ続ける。 男は女が根負けするまで酒を煽る。 「聞きました?」 不意に女の真っ赤な唇が言葉を発したものだから、総悟は耳を傾けることにした。 「また遭ったんやて、真選組沖田総悟の奥方はん狙った辻斬りが」 総悟の、傾けた猪口を持つ手が止まった。 しかしそれは一瞬のことで、またくいっと酒を喉に注ぎ込む。 女の艶やかに動く唇に一度目をやった。 ぼんやりと、その口が模る言葉の続きを眺めていた。 「なんでも、彼女の護衛にあの土方はんが付いてはったらしいから、その犯人はその場で取り押さえられたらしいんやけど」 無くなった総悟の器に女は液体を注ぐ。 おいおい、この勝負、まだ続くのか。 「おっかねぇなァ」 総悟は苦笑した。 もう味のわからない液体をくいっと飲み干した。 「一体何処の誰だィ。そんな命知らずなこと仕出かした輩は」 「噂ですが」 女が声を潜め、総悟に耳打ちをする。 「六角事件の時の残党や言う話ですわ。しかも沖田はん自身が今や色街で飲み歩く体たらくっぷりって話も聞きます。奥方はんが不憫でありゃしまへん」 女の唇は流暢に動く。 それは、他でもってない目の前にいるこの男が、よもや沖田総悟であることを知らないからだろう。 (本当に不憫な奥方様だ) 人事にそんなことを思ってみる。 屯所に帰らず、さ迷うようになってからというもの、酒浸りの生活を送っていた総悟にとって、最早神楽を思い出すことさえも、後ろめたくなっていた。 仲間の所から奪うようにして屯所にその身を置かせ、子をはらませた末に、今度は屯所に独り置き去りなど、これ以上にひどい仕打ちをする夫がこの世にいるなら見てみたいものだ。 そう自分を皮肉って、総悟は酒が空になった猪口を女に差し出した。 そうして一つ、咳払いをした。 昼間吐いた血の味はどんなに酒で洗ったところで、口蓋から消えることはない。 一年前からずっと、それはひと時も忘れることを許してくれない病魔。 総悟の身体を、精神を、容赦なく蝕み続ける。 濁った咳は、傷ついた彼の喉をまるで掻き毟るかのように。 繰り返し真っ赤な血は総悟の体内から噴火する。 総悟は顔を顰めて口を覆った。 先ほどまで一定に酒を注ぎ続けていた女が、とうとう眉を寄せる。 丸まったその背中に、そっと手を添えた。 「――もう、それくらいにしとかはったらどうです。飲み過ぎはお身体に障りますえ、沖田はん」 *** 土方の部屋の前で、神楽は立ち止まった。 悩んだ足をその部屋に踏み入れるかどうか躊躇って、結局踵を返し、出掛ける準備を整える。 割と大きくなったお腹をさすりながら、検診に必要な母子手帳を薄い鞄に詰め込んだ。 玄関へ向かう廊下の途中で、忙しいそうに駆けずり回る下っ端隊士達とすれ違う。 屯所内は、先日神楽を狙って白昼堂々襲いかかってきた攘夷浪士の取り調べに手一杯の様子だった。 下っ端の隊士たちがあれなのだから、副局長の土方が暇なわけない。 今日はお腹の子の六ヶ月検診。 いつもなら銀時が付いて来てくれるのだが、今日は仕事の依頼人と会うだかで、代わりに土方にお願いしていたのだが。 (さすがにこのくそ忙しそうな中、頼みづらい) 土方や近藤にはしばらく単独での外出禁止を言われて居たのだが、今は状況が状況だ。 そもそも、たかが検診くらいに毎回付き添い人を引き連れていたのがおかしいくらいだ。 今日は小春日和だと天気予報で言ってはいたが、油断は禁物と神楽は分厚めの羽織に袖を通した。 靴を履いて、愛用の傘を手に取ると、悪いことをするかのようにこっそりと忍び足で屯所を後にした。 予報通りの晴天を愛でながら、傘を差し日差しを避けるという矛盾はいつになっても変わらない。 藤色から垣間見える蒼色は神楽の眼を楽しませた。 駆けだしたくなるような衝動を覚えたものの、ぐっと堪え、代わりに自らのお腹をゆっくりと撫でてやる。 そんな神楽の目の前を、一羽の鳥が羽音とさせて空へ舞い上がった。 目覚ましいほどの真っ赤な鳥。 (珍しい色) そう認識すると同時に、後方から、 「あ」 泣きそうな声が耳を掠める。 小さな足音がばたばたと慌ただしく駆けて来る様子を連想させたかと思うと、神楽の横を一人の男の子がすり抜けた。 齢はまだ四つといったところか。 鳥が飛んで行った空を見上げながら、走り続けていた。 手に金色の鳥籠を下げているところから見ると、どうやらこの少年の鳥だったようだ。 何らかの理由から少し鳥籠を開けた拍子にきっと羽ばたかれたのだろうことは予想がついた。 しかし、その少年を襲う不幸は終わらない。 空ばかり見上げて走るものだから、上手くバランスが取れないわけで。 大人とて前を見ず走るというものは難しいのだからこれくらいの子どもが転ばないはずもなかった。 (危ない) 咄嗟に神楽が駆けだそうとした矢先。 地面から少し顔を出していた石に見事に躓いて、少年は砂利道に投げ出される格好となった。 よくもまぁこんなに派手に転べるものだと感心したくなった事はさておき、神楽は慌てて少年に駆けよった。 「大丈夫アルか」 少年の前に回り込むと、両目に一杯涙をこさえ、今にも溢れださんとしていた。 両膝は擦りむけ、真っ赤な血が滲んでいた。 払い落せるだけの砂を払ってやり、神楽は少年の両手首をギュッと握りしめる。 「ほら、泣かないヨ。男ならこのくらい我慢できるはずネ」 彼の双眸からは溢れた涙が音もなくぽろっと地面に染みを作った。 しかし、泣き声は必死に堪えているようで、下唇をきつく噛みしめてただ一点をじっと眺めている。 神楽がにっこりと微笑んで、両掌いっぱい少年の頭を撫でてやった。 「よく頑張ったアル!お前は強い男ネ」 そうして、放り出された鳥籠を引き寄せて少年に手渡した。 「鳥も、お前に感謝してるアル。自由にしてくれて、ありがとうって」 すると泣き顔の少年は縋るような眼で神楽を見上げた。 「お姉ちゃん、鳥さんの言葉わかるの」 神楽は大きく頷いた。 「鳥はね、こんなちっちゃな籠の中なんかじゃ幸せに暮らせないアル。お前が籠を開けてくれたおかげで、幸せになれるって鳥がお礼言っているヨ」 その時。 蒼穹に消えたはずの鳥の鳴き声が、辺りに響き渡る。 甲高い、それでも、どこか懐かしい声。 「ほらネ。『幸せにしてくれてありがとう』って鳥が言ったのヨ」 神楽の言葉に耳を傾けていた少年が、今度は、蒼い蒼い空に向かって大きな声で叫んだ。 「鳥さん、元気で暮らしてね!」 もう一度だけ、鳥は囀った。 それだけの事実で少年は満足げにえへへと笑う。 「僕男の子だから、こけたって泣かないし、ちゃんと鳥さんとばいばいできたよ」 さっきまでべそ掻いていたくせに、満面の笑みで言うものだから。 「おう。お前は日本一の男アル」 めいっぱい褒めてやると、照れた顔で少年は立ちあがった。 真っ赤に血が滲んだ膝を見て、少し眉を寄せはしたものの、痛くないと呪文のように念じていた。 膝をついてしゃがみこんでいた神楽も、ついた砂を払いゆっくりと膝を伸ばす。 すると神楽の向こうを見やって、少年が叫ぶ。 「母ちゃん!」 少年の眼が見つめるその先に。 きっといるであろう女の姿を思い浮かべながら、神楽が振り返ろうとした、その時。 「総悟!」 眼の端に、母親の姿が映る一瞬前。 女の声が呼ぶその名前に、さすがの神楽もはっとした。 驚いて、少年に向き直った。 少年は、母と呼んだ女に手を振っているばかり。 心配そうに眉を寄せ、肩で息をした女が向こうから近づいてきた。 思考が一足遅く、現状を把握する。 「総悟…」 安堵したように、女は確かに、その名を呼んだ。 何だろう、何処か懐かしい感覚。 それと共に、何処へやったらいいのかわからない感情が神楽の内から沸き上がる。 呆けている神楽に、母親が向き直って、深々と頭を下げた。 「すみません、うちの子がご迷惑をおかけしたみたいで」 「あ、いや…」 自分が発した情けない声に、思わず神楽は口を噤んだ。 女は少年の手を引くと、もう一度だけ神楽に会釈して、元来た道を戻っていく。 振り返り際に、少年が笑って手を振った。 その手に振り返すことだけが精一杯で、わけもわからず泣きたくなる感情を必死に堪える。 無意識にお腹を擦る。 傘をさす手にも力が入った。 (なんで動揺してるアルか) ただ名前が同じだっただけだ。 思いもよらなかったところで、その名を聞いただけだ。 「馬鹿みたいネ…」 神楽は呟いて、自嘲してみた。 こういう時。 どうしようもなく逢いたくなる。 どんなに駄目男だと罵ってみても、駄目亭主だと吐き捨ててみても、帰らないとわかっている男の帰りを無意識に待ち続けてしまう。 |