これといって特別なことがあったわけでもなく、まして誰かになにを言われたわけでもない。でもどうしてだろう、こんなにも無性に泣きたいときがあるものなのか。からだの中を得体の知れないなにかが駆け巡り、それが延々と永遠に近いものが果てしなく続いている。そのなんとも表現できない感情を体外に放出して解放されたいのにうまくいかない。ずっとずっと自分の中で留まっているそれは一体なんなのだろうか。自分でも分からないものを他人に理解してもらえるわけがなく、あたしは一人ベッドからそっと抜け出して、どこまでも広がる夜空の星々に想いを馳せていた。

船の甲板から見上げる幾銭もの、それこそ裸眼では確認できないほどの星が瞬くこの空は、どこに終わりがあるのだろう。あたしのこの得体の知れない感情と一緒で、どこにも終わりはないのだろうか。冬の寒空の下、そんなことを思いながら吐く息はどこまでも白い。防寒対策として羽織った厚手のカーディガンだけでは寒さを防げるわけがなく、しかし一度部屋に戻ってマフラーや手袋などを持ってくるのも億劫だ。今はただこうして静かで凛とした空気を、誰にも邪魔をされることもなく一人で夜空を眺めていたい。

不意に、板が軋んで一歩一歩を踏みしめるような足音が聞こえてきた。振り返れば、そこにはエース隊長が立っているではないか。向こうもあたしに気が付いたらしく、目を見開くと少し口角を上げてこちらに近づいてきた。その距離を詰める時間が、どうしてか少しもどかしい。そのままあたしの横に並んだ隊長は、ゆっくりと口を開いた。

「こんな時間になにやってんだ?」
「…少し、風に当たりたくて」
「そうか、おれもだ」

先ほどのあたしと同じように、隊長が空を見上げる。その横顔が、女のあたしからも憎いと思うほど整っている。スッと筋の通った鼻、どんなときでも曲がることのない意志の強い瞳、頬にちらばる可愛らしいそばかす、羽織ったシャツの下から覗く隆々とした筋肉。さすがに冬島が近いせいだろう、普段はむき出しの上半身の上に着るシャツの隙間から見える筋肉が、色気だって見える。

あまりにも直視していたため、視線に気づかれるのではないかと思い慌てて空に視線を戻した。先ほどと変わらぬ夜空が、星たちが、変わらずそこに存在を主張するように煌めいている。ふと瞬きをすると共に一筋の光が空を駆け抜けた。だがそれもすぐに消えてしまう。それが合図のように、あたしは溢れてしまいそうなこの感情を、理解することのできない苦しみに胸が痛みだした。

どうして自分のことなのに、自分自身のからだのことなのに、なにも分からないのだろうか。心がじくじくと鈍い痛みに支配され、心臓を鷲掴まれるような圧迫感に、息が詰まりそうで呼吸することが辛い。思わず手で胸を抑えると、隊長があたしの異変に気づき心配するように声をかけてくる。手をあたしの肩にかけ、座らせるように促すその腕の体温から伝わってくる温かさに、とうとう瞳から涙が流れ出てしまった。今度はぎょっとしたような顔をしてますます困惑し、どうすればいいか分からないといった隊長の様子に申し訳なくなる。取り敢えずお互いに床の上に座ると、背中をゆっくりさすって落ち着かせてくれる隊長の優しさに、あたしは涙が止まらなくなってしまった。突然苦しみだしたり、急に泣きだしたりと、わけが分からなくて違いないのに、どうして隊長はこんなに良くしてくれるのだろう。あたしの涙が止まるまで、隊長は飽きもせずずっと傍で背中をさすってくれた。

ようやく涙が止まり、あたしの様子が落ち着いた頃。隊長はなにを聞くわけでもなく、ただ隣でずっと座ってくれていた。なにかを話す様子もなく、あたしが口を開くか、このままなにも言わずただ去るのを待ってくれているのだろう。…この人はどうしてこうも優しいのか、誰にでもこうなのか。それは少し哀しいと思った自分に気づくと共に、あたしはとうとうこのわけの分からない感情を曝け出すことにした。


「隊長は、」
「ん?」
「隊長は、自分の感情ってなんだか分かりますか?」
「…感情?」
「喜怒哀楽はもちろんのこと、辛かったり、嬉しかったり、泣きたかったり。人間は、自分の感情を他人に表現することができます。でも、それができないときは?笑いたいのにどうしてか笑えなくて、怒りたいのに怒れなくて、泣きたいのに泣けなくて。そうやって、自分の感情のことを、自分自身ですら分からないときってありませんか?自分でも分からないものを、どうして表現しようとしなくてはいけないんでしょうか?」

寝たいのに寝れなくて、布団に入って目を瞑って無理矢理にでも眠りにつこうとしても、得体の知れないものがあたしの邪魔をする。終わりの見えない負のループに、あたしはずっと悩まされなくてはいけないんだろうか。ご飯を食べてても、仕事をしてても、人と話してても、ずっとずっといつまでも理解できないこの思いに、憑りつかれ続けなくてはいけないのだろうか。そんなのは、いやだ。いやだけど、どこにも答えが見つからない。

「…不安なんじゃないのか?」
「え…?」
「お前は、不安なんだよきっと。だから笑いたくないし、でも怒りたくて、泣きたくなる。けど不安だから、悩んで、苦しんで、そして不安から逃げたくなる。逃げたくなればなるほど、自分のことが分からなくなってくるんだよ」
「ふ、あん」
「そう、お前は逃げてるんだよ。逃げることのできない感情から、ただ逃げてるんだ。だからわけが分からなくなる。お前は、不安と向き合ってないんだ」

あたしが不安?なにに?なにを?どうして?

「あ…たし、不安じゃありません。なにも、なんにも不安なんかありません」
「嘘だな」
「…なんで、そんなことが言えるんですか」
「不安してない人間なんて、いるわけないだろ。みんな不安してるから、毎日を頑張って生きて、歩いてるんだ。不安がない人間なんて、そんなの人間じゃない」
「じゃあ、あたしはなにに不安してるっていうんですか」
「さぁな、おれはお前じゃないからそんなの分かんねぇよ。けど敢えていうんなら、お前は生きていくことに不安なんじゃないか?」
「生きる…?」
「おー。海賊なんてしてるなら、いつ死ぬかなんて分かんねぇからな。だから不安なんじゃないか?…けどな、そんなの誰だって一緒なんだよ。お前だけ特別だなんて自惚れたりすんなよ」

その言葉に、スッと胸が軽くなるのが分かった。からだを蝕んでいた痛みが、徐々に薄らいでいくのかまざまざと感じられる。



そうか、あたしは不安だったのか。生きることに、寝ることに、ご飯を食べることに、仕事をすることに、全てに、不安だったのか。



ようやく自分の感情がなんなのか、ぼんやりとだが分かったような気がして嬉しかった。自分が、自分であることを再認識したような感覚だ。不安から、無意識のうちに逃げていたのだろう。自惚れ、か。まさにそうだ。心のどこかで、こんな風に悩んだり考えたり思ったりする自分を、特別扱いしていたのだろう。その浅はかさに、愚かさに、滑稽さに、悲劇のヒロインのように演じてた自分が、バカバカしくて仕方がない。

「隊長」
「なんだ?」
「…話を聞いてくれて、ありがとうございました。」
「気にすんな。お前はおれの隊の部下だからな、またなにかあったらおれにいえ。いつでも話を聞いてやる」
「はい、」

まだ自分の感情がなんなのか、ハッキリとは分かっていない。けど、先ほどよりははるかに気が楽だ。隊長がここに来て、話を聞いてくれてよかった。あぁ、今日はきっと久方ぶりにゆっくり眠れるに違いない。そんなことを思いながら、あたしはまた空を見上げるのだった。





うららかなほしづき夜
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20110301

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