驚いたようにこちらを振り向くエース隊長。目をまん丸く見開き、ぽかんと口を開けていた。そりゃそうだ、ずっと避けていた人に急に声をかけられれば驚かないはずがない。あたしはそのまま隣に並んで、今までエース隊長がしていたように海へと視線を向ける。朝日が昇りつつあるそれは、あの笑顔と同じくらい眩しかった。
「今まで避けてて、申し訳ありませんでした」 「…おぉ」 「…悪気はなかったんですけど、そのことによって隊長にご迷惑をおかけしてすみません。…少し自分の気持ちと葛藤しておりまして、」 「…」 「あの、それであたし隊長にお伝えしたいことが」 「それ」 「え?」
それと言われ、続けかけた言葉を遮られ、ビシっと指を刺される。指摘されたことがよく分からなくて首を傾げると、その指があたしの唇にそっと触れた。突然のことに反応できないでいると、隊長の指が唇をゆっくりと撫ぜり、自然と顔に熱が集まる。何度か親指の腹で下唇を往復し、顎にかけられた他の指でぐいっと顔を上げられた。そこにはいつになく真剣な目付きのエース隊長がいて、思わず視線を外そうとしたが無言の圧力に逸らせなかった。数日振りに合わさった瞳に、ますます体温が上昇する。
「その隊長っての、やめろよ」 「…は、」 「あと敬語も」 「あ、え…」 「…前までは、普通に接してくれてたじゃねえか」
漸く隊長の言わんとしていることが分かり、困惑してしまった。そのまま表情に出てしまったのだろう、彼の顔立ちのいい眉間に皺が寄る。潮風があたしたちの身体をゆっくりと包んだが、体温の高くなったあたしはなかなか冷める気がしなかった。寧ろ、ただでさえ体温の高い隊長が触れる指先のせいで上がる一方だ。
あたしと隊長は、そんなに変わらない時期からこのモビー・ディック号に乗船している。自分の方がひと月かふた月ほど早いだけで、歳の近いあたしたちはすぐに仲良くなった。その頃からあたしはあの笑顔にいち早く魅せられていて、最初こそ人斬り狼な彼だったが少しずつこの白ひげ海賊団に溶け込んでいくのにそう時間はかからなかった。なんとなく放っておけない雰囲気を持っていた彼にはよく手を焼いたもので、それでも心を開いていってくれるのは素直に嬉しかった。
背中にオヤジの誇りを背負って、任務を任せられるようになった頃からだろうか。彼が少しずつ遠い存在になるように感じたのは。あんなに一番近い位置にいたのに、気づいたらあたしは置いてかれていた。いつの間にか二番隊隊長を任せられていて、同じ隊になって嬉しいと思う傍ら、置いてけぼりにされた感覚にどうしようもない気持ちを押し殺して。あたしはそれから彼の名をことを呼び捨てすることはなくなった。気さくに話しかけていたことも忘れたように敬語を使い、彼は怪訝そうな顔をしていたが笑って誤魔化し、いつしかそれが普通になっていたのだ。
昔のことを思い出し、あたしはますます戸惑ってしまう。先ほどまで息込んでいた自分はどこに行ってしまったのだろうか、少し身を縮こませ距離を測ろうとした。が、それは隊長の手が許してくれなかった。顎にかけられた手が後頭部に移動し、もう片方の手があたしの背中に回りふわっと抱き寄せられた。途端に、隊長の匂いが鼻腔を擽る。太陽のような匂いに包みこまれ、ますます強ばる身体。激しくどくどくと高鳴る心臓に、どうか気づかないでくれと目を強く瞑ると、あたしとは違う心臓の音が聞こえた。そこに耳を寄せると、あたしと同じくらい動く心臓に、それが漸くエース隊長のものだと気づく。
隊長も緊張してる…?彼の背中に同じように腕を回すと、びくっと彼が身体を強ばらせた。驚いて顔を上げると、あたしと同じくらい顔の赤い隊長が目に入る。果たしてそれが朝焼けによるものなのか、それとも彼自身によって赤くなった顔なのか。
「あの…」 「エース、」 「え?」 「…前みたいにエースって呼べよ」 「でも、」 「じゃねえと離してやんねー」
敬語もな、というと同時に腕の力が強くなる。密着する身体にどうしようもない焦りが、あたしをますます混乱させた。無意識に背中に回した腕を恨めしく思い、今更引き下がるのも嫌でそのままの状態が続く。彼は本当にあたしが呼ぶまで離してくれないようで、腕の力が弱まる気配は一向にない。寧ろ力が強まる一方で、少し息苦しく感じる。でもそれは決して嫌なものじゃなくて、心地いいものだった。
あたしはなんのために彼に声をかけたのか思い出し、背中を押してくれた隊長たちの気持ちを無下にしないためにも、消え入りそうな声で彼の名を吐き出す。
「…ェース」 「おう」 「エー、ス…」 「うん、」 「エース。…エース、エー…スっ」 「…やっと呼んでくれたな」
肩に手を置かれ、そっと離される。お互いの顔がよく見えて、久方ぶりに名前で言えたのが嬉しくて何度も呼んでしまったことに恥ずかしくなった。でも、ここで顔を逸すわけにはいかないと踏み留まり、エースの顔を見つめる。彼も同じようにあたしの顔を見つめていて、ゆっくりと名前で呼ばれた。たったそれだけなのに、酷く嬉しい気持ちでいっぱいになる。自分の名前が彼に呼ばれた、ただそれだけで、こんなにも幸福を感じられるものだろうか。
青々と広がる空、瑞々しく水面に光る広大な海の上に浮かぶ巨大な船。その船首に二人きりの空間。朝日が天まで昇りきり、あたしたちを含め船全体を照らした。次の瞬間、彼の口から紡がれた言葉にあたしは驚きを隠せず目をこれでもかと見開く。その顔はいつかのあの時と重なり、それは自分の大好きな笑顔だった。そしてあたしはそれに負けないくらいの笑顔で応え、漸く手に入れたかった太陽を掴んだのだった。
欲しかったものは、 太 陽 で な く 貴 方 で し た
これはとある昼下がりの出来事。まだあたしが彼を意識する前、お互いに仕事を放棄して誰にも見つからないよう船尾にて昼寝をしていたときだ。いつも上半身裸の彼を不思議に思っていたあたしはその理由を問うたことがある。その質問に対し彼は、背中の誇りを自慢するためだと笑って言った。嗚呼あたしはこの笑顔に惚れてしまったのだ。赤くなった顔を見られまいと必死に隠しながら寒くはないのかとバカな質問をしたなあと思い出す。彼はまたも笑いながら、悪魔の実を食べたから普通より体温が高いのだと手を握られた。その掌から伝わってくる温かさに、あたしは海の底まで彼に堕ちてしまったのだ。
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