ネスと仔馬
調査兵団の馬はとても高価だ。一頭で平均的な庶民の生涯年収に相当するという。
何でも調査兵団専用に品種改良されているらしい。
「粗食に耐え、長時間の行動にも不平を漏らさない。気性も温順で、巨人に対してもパニックを起こしにくいってのが特徴だ」
愛馬の頭を撫でながら、ネスさんはそう言った。
壁外調査では、巨人の捕食対象にならないうえ巨人たちから逃れられる唯一の手段。
自然、馬に対する皆の態度は愛情の籠ったものとなる。
「こいつらのおかげで俺たちは壁外調査から生きて戻ってこられる」
な、シャレット。とネスさんは穏やかに笑った。
馬術の訓練もしておいて損はないとエルヴィンさんに勧められて、私は今日、ネスさんと一緒に馬小屋に来ている。
たくさんの馬たちがいる中で、ネスさんは迷わず自分の馬のところに向かった。シャレットと呼ばれた馬も、とても嬉しそうに…ネスさんの頭に巻かれたバンダナを噛む。
「お前、やめろってシャレット!」
バンダナを抑えながら必死になって愛馬に声をかけるネスさんだけど、シャレットの方はとても楽しそうだ。
「シャレットってまだ若い馬なんですか?」
漸く口を放させて一息ついたネスさんに言えば、きょとんとした顔を返された。
「ネスさんに遊んでほしくて仕方なさそうだから…」
「ああ…よくわかったな、シィナ」
「顔を見たら分かりますよ」
「…そうか?」
シャレットの顔を見上げて、ネスさんが首を傾げる。
シャレットはまたネスさんのバンダナに噛みつきたくてうずうずしているみたい。
ネスさんもそれが分かったのか、さっとシャレットから距離を取る。
残念そうにシャレットは鼻を鳴らした。
「まあ、俺とシャレットのことはいい。シィナ、こっちに来てみろ」
手招きされて向かったそこには、まだ体の小さい馬がいる。その顔は、どこか悲しげだった。
「この子は?」
「しばらく前に生まれた馬なんだが、この間の壁外調査で親馬が戻ってこなくてな…。まだ体が小さいから、君の練習にちょうどいいだろうと思ったんだが」
床に座り込んで力なく顔を伏せていたその馬が、とても寂しそうな眼をしていることに気付いた。
唐突に、この子は私と同じなんだと理解する。
思わず手を伸ばして、その頭を撫でた。
「…この子、私が頂いてもいいですか?練習用じゃなくて、いつか一緒に壁外に行く相棒として」
馬と目が合う。
ネスさんは少し驚いたように私に目を向けたけど、すぐに「ああ」と頷いてくれた。
「そうだ、名前も付けるか?」
「いいんですか?…じゃあ、ヴィフレン」
思い浮かんだ言葉を口に出したら、その子はすっと顔を上げた。気に入ってくれたみたい。
ネスさんが良かったなとヴィフレンの頭を撫でようとすると、仔馬はなぜかその手を避けた。
私とネスさんは顔を見合わせて首を傾げる。
私が撫でると気持ちよさそうに目を細めるのに、ネスさんが手を伸ばすとやっぱり逃げてしまって。
懐かれなかったらしいと肩を落とすネスさんを慰める。それを横目に、ヴィフレンは鼻を鳴らした。
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ヴィフレン
ブルガリア語で「強い風」の意