病者たちの隠れ家


深夜二時を回った頃、しんとした部屋に電話音が響いた。ちらりと視線を向ければちかちかと光る携帯。こんな時間に誰だ、と手に持っていた煙草を灰皿に押し付けて、代わりにそいつを手に取った。
開いたディスプレイに映し出された名前に少しだけ驚く。あいつからかけてくるなんて珍しい、しかもこんな夜更けに。ほんの少し、心がざわついた。ぴ、とボタンを押して携帯を耳に押し当てる。

「…ん」

それだけ言うと、少し間が開いてから声が聞こえた。

『…三郎?』
「おう」
『今バイト中?』
「いや、休み」
『……』
「なんだよ」

何かを言い躊躇っているような、何度も空気を吸い込んでは口を閉ざす。そしてようやく、言葉を紡いだ。

『今から行っていいか?』
「……いいよ」

分かった、と言って通話が切られる。普段通りの質素な待ち受けを眺めて、携帯をベッドの上に放り投げた。あいつが家に来るのは、酷く久しぶりな気がする。それどころか会うことすらここ何か月無かったような。いや、お互い忙しかったしな、とそれらしい理由を思い浮かべてその考えを終わらせた。

暫く待つこと数十分。玄関のベルが鳴った。開いているのに、と思いながら重たい腰を上げてドアを開くと、雨に濡れた兵助が佇んでいた。

「三郎、悪いな夜中に」
「や、それはいいけど、お前めっちゃ濡れて、」
「ああ、傘を駅に忘れて」

雨、降ってたのか。そういえば今日は一歩も外に出ていないと気が付いた。カーテンを閉め切った部屋からは外の様子は伺えない。

「とにかく入れ」
「ん、ああ」

兵助を招き入れてドアを閉める。その場に兵助を待たせて、中からタオルを持ってきて兵助に手渡した。

「冷えてんだろ、シャワー使えよ。服も貸すから」
「え、いいよ悪い」
「風邪引かれても迷惑だし、何より俺の部屋を濡らす気か」
「…分かった、借りるわ」

頷いた兵助に適当に着替えを渡す。それを受け取った兵助が風呂場に入ったのを見届けて再び部屋に戻って腰を下ろした。

何かがあったのは、一目瞭然だ。上手く隠しているつもりなのだろうが、分かってしまった。詳しくは分からないが、おそらくあいつと何かあったに違いない。ああ、どうして。何故、俺に電話を寄越した。

無意識に煙草に火を付け、紫煙をまき散らす。




「…窓閉めたまま煙草吸うなよ、すっげえ煙たい」

何分経っただろうか。部屋の入口に立ち、濡れた頭からタオルを被った兵助がそう言った。気が付けば灰皿が溢れている。ちらりと表情を伺えば眉を寄せてタオルを掴んだ手を鼻先に押し当てていた。窓を開けようと腰を上げて手を伸ばし、カーテンを開けばまだ雨が降りしきっていた。雨音が静かな部屋へ入ってくる。

「座ってろ」

兵助の肩を叩いてキッチンへ向かった。肩越しに振り返れば、言われた通りに兵助が部屋の中に腰を下ろすのが見えた。先ほどまで俺が座っていた場所に。


コーヒーを携えて部屋へ戻る。外の雨を眺めていた兵助が振り返った。

「悪いな、三郎」

それは、何に対する謝罪だろうか。

「別に」

コトリ、とマグカップを机に乗せる。再び兵助は窓の外に視線を向けた。何故こいつがうちに来たかは、大体分かってる。

「…竹谷と喧嘩でもしたか」

びくりと、その細い肩が震えた。表情を見せないのは、きっと図星だからだろう。俺と兵助は幼馴染で、高校の時に俺と竹谷が仲良くなり、兵助は竹谷に恋をした。同性だとかそんなのは気にならないくらい、一途に竹谷を想っていた。まるで俺が兵助を想うのと同じように。それからしばらくして、竹谷が兵助の想いに応えて二人は付き合い始めた。けれど竹谷は元々ノンケな奴だ、それに対する兵助の中の不安と、その不安に対する竹谷の不満。ぶつかることは少なくない。兵助は弱いから、こうやって誰かの元へ逃げてくる。その誰かが、俺であればいい。

「兵助、」
「別れた」
「…は?」

兵助は振り返らない。ただ、震えを隠した声で、

「ハチと別れた」

そう、紡いだ。
色んな衝撃が身体の中を巡った。何故、と聞くのは兵助にとって苦痛でしかないだろう。それに兵助の様子を見る限り、ちょっとした思い切りで別れたわけではなさそうだ。きっと二人にとっての、苦渋の選択だったのだろう。

ならば俺は、どうしたらいい。

「兵助」

呼んでも兵助は雨から目を離さない。俺は、ずっと押さえつけてきたんだぞ。この、心の内を。

「兵助、」

尚も俺を見ない兵助の肩を掴み、こちらを向かせた。既に泣きはらした跡のある兵助の大きな瞳を手で覆い、唇を塞いだ。そっと触れただけで唇を離し、手を退かす。見開かれた瞳と目が合った。そしてもう一度唇を重ねる。下唇にやんわりと噛みついて、吸い上げた。
くい、と兵助に胸を押され身体を離す。けれど、これはきっと拒絶じゃない。

「…何、」
「離せ、三郎」
「嫌だ、って言ったら?」
「駄目だ」
「なぜ」

そう問えば兵助は眉を寄せた。今にも泣きだしそうな表情。泣いてしまえばいいのに。

「三郎に、甘えてしまう」
「…甘えろよ」

それが俺の役目だろう。だからどうか今だけは、俺を見ていてはくれまいか。