にたがりの錯角


風が、泣いた気がした。真夜中だった。何をするわけでもなくただ学園内を散歩していたら、ガタン、という音が聞こえ前方の塀から何かが降ってきた。それは人で、彼は

「兵助?」

声をかければ人影はこちらを向き、その大きな瞳が私を捕えると口元を綻ばせた。

「…、」

さぶろう、と私の名を呼んだ気がしたがその声はこちらに届くことなく、兵助の身体はぐらりと傾いてその場に倒れ込む。咄嗟に地面を蹴り、彼の身体が地面に衝突する前に抱え込んだ。抱きかかえて支えた身体はいやに熱く、背中には違和感が。いつしかのことを彷彿をさせる、矢が彼の背中を貫いていた。目を凝らして見ればそこらかしこが傷だらけだ。気付いた途端、医務室へと駆けだした。




兵助が大怪我をして帰ってきた。数日前から忍務に出ていたことは知っていたが、どうやら予定が狂い非常に難易度が上がったものだったらしい。何があったのか詳しく知らないが(他人の忍務内容は原則完全機密である)、どうやら戦に巻き込まれたようだ。
翌朝、心配する級友たちに着いて医務室に赴けば目が覚めたらしい兵助は痛々しい見た目とは裏腹にけろりとした表情を私たちに向けた。

痛々しいのは身体だけじゃない、無理しているのが見て取れることが何より痛々しい。それにはわずかな苛立ちさえ募った。
三郎、と今度は確かに私の名を呼ぶ。

「医務室まで運んでくれて有難うな」

そう言って笑う兵助に、笑顔の一つさえ返してやれなかった。


一週間もすれば兵助は皆と共に実技実習にも加わり、いつものように優秀な結果を治めていた。ほら、またこうして前と変わらない日常を送り出す。そう、兵助は優秀だ。どんな忍務であろうと、どんな想定外のことが起きようとその忍務を全うすることができる。しかも自ら難関な忍務を請け負うことすらある。そして奴はそれらを見事完遂して帰ってくるのだ。だから兵助の信頼は増えていく。けれど増えるのは信頼だけではない、その細い身体に残される傷跡がそれを物語った。




「死にたがり」

井戸で水を浴びる兵助に吐き捨てるようにそう言えば、濡れた前髪を掻いてこちらに視線を寄越した。

「何が」
「お前が」

そう言えば今度は眉を寄せる。

「人を勝手に自殺志願者にするな」
「何が違う」
「俺が、いつ、死にたがった」
「いつもそうだろう、今回だって」

兵助に近寄り、トンと首元に指を突きつけた。

「忍務を諦めて一時学園に戻っていれば、こんなにも傷を負うことは無かったんじゃないのか」

あの、時だって、

「あの夏休みの時だってそうだろう。たかが宿題だ、忘れたところで追加課題が出されるだけだろう、なんで身を削ってまで」

そんなにも

「命よりも、忍務が大事か」

言えば兵助は目を丸くした。すぐさま反論してくるかと思ったが、兵助はしばらく押し黙り、後にゆっくり口を開いた。

「意外だな」
「…何が」
「俺の行動は忍びとしては当たり前のことだと思ってる。命を大事にする忍びなんて…うちの保健委員くらいだろう。三郎だって俺と同じだと思ってた」
「……」

言われてみればその通りだった。けれど何故か腑に落ちない。

「まだ、卵だろう。今死んでしまえば忍びになどなれない」
「それはそうだけど、ていうか、俺が無理やりにでも忍務を完遂しようとするのは、三郎の影響だってあるんだぞ」
「…は?」

突然出された自身の名前に今度は自分が目を丸くする。兵助は静かに頷いた。

「まあ俺が勝手にお前を意識してるだけだけど。忍務中にさ、これが割り当てられたのが三郎だったらきっと完遂するんだろうなって思って。そしたらどうしてもやり遂げたくなるんだ。…俺は、三郎との差を作りたくない」

そう言って真っ直ぐ私を見据える兵助に、言葉を飲み込んだ。そして兵助はへらりと笑った。

「それでこんな怪我してりゃ様ないけど」
「…お前、そんな理由で?」
「うん、くだらないってか、他人と比べるとかそれこそ忍びとしてどうかと思うけど。俺は少しでも三郎の近くにいたいからさ」

恥ずかしげもなく兵助はそう口にする。その言葉に特別そういった意味があるわけではないはずなのに、何故かこちらが恥ずかしくなった。ただ一つだけ言えることがある。

「兵助は、私を買いかぶりすぎだ」
「うん?はは、そうかも」
「それに、」

お前は馬鹿だ。

「死んでしまえば、近くになんかいられないだろう。私の近くにいたいというのなら、もう無茶をしてくれるな」

きょとんとした表情を見せた後、兵助は眉を寄せて笑った。

「…ほんとだ」

そんな兵助を見て、先ほどまであった胸のつっかえが消えていることに気付いた。