の日の出逢い


―――やられた。

鉢屋は心の中で悪態を吐くと同時に溜め息を吐き出した。朝家を出た時はこれでもかという程に晴れ間が覗いていたいたのに。ザアザアと降りしきる雨を前に再び息を吐く。なんとか降り出す前に帰りたかった、と。何せ傘を持っていない。多少の雨なら走って帰るが、どうやらこの中走って帰ったとしたら家に着くころには川にでも落ちたかと見間違える姿になっているだろう。
鉢屋は適当な店の前の屋根の下に身を置きながら空を見上げる。早いとこ止まないだろうか。ぼんやりと雨が止むのを待っていたら背後でガラリとドアの開く音がした。そうか、ここは店の入り口前だ。長いこと居座るのは迷惑になる。

「…と、すみません」
慌てて振り返って謝罪を口にする。振り向いた先のドアの前には、自分と同じ年くらいの黒い髪の青年がこちらを見て立っていた。エプロンをしているところを見るとどうやら店の者のようだ。

「そこ、濡れない?」
「へ?」

不意に声をかけられ視線を青年の顔に戻す。すると真っ直ぐにこちらを見つめる黒い瞳と目が合った。青年はふと外に視線を移す。
「風も結構出てきたし、そこだと濡れるだろ。良かったら店の中で止むまで待ってなよ」
それだけ言うと青年は踵を返し店の中へ入って行く。ぽかん、と彼の背を見つめているとくるりと振り返った。

「入らないのか?」
「え、」
「別に店で休ませたから何か食ってけとか言わないぞ?」
「いや、別に怪しんでるわけじゃ」
「ふうん」
「あー、それじゃ、お邪魔します」
「どうぞ」

青年の後を追うように鉢屋は店の中に入った。どうやら定食屋のようで、スッキリした親近感のある店内だ。この雨のせいか客は一人も居なかった。入り口から一番近いテーブル席に座って店内を見回していたら先ほどの青年が温かいお茶を持ってきてくれた。

「どうも」
「いえいえ」

お茶をテーブルに置くと青年は鉢屋の向かい側に腰を下ろした。ちらり、とエプロンに付いているネームを覗き見る。そこにはワープロ文字で「久々知」と書かれていた。

「この店、アンタ一人でやってんの?」
「ん?ああ、そうだけど」
「へー、定食屋?」
「まあそんな感じ」

ずず、と久々知は自分の湯飲みをすすった。鉢屋も同じように茶に口づける。夏も近くなってきたとはいえ、雨で冷えた身体には丁度良い温度だ。なんだか至れり尽くせりだ。

「なあ、おススメメニューって何?」
「豆腐!」

鉢屋が問えば間髪入れずに久々知は答える。その反応の速さに驚きつつも目を輝かせた久々知に目を奪われる。しかしここは何かの定食を答える場面だろう、なんでよりにもよって、

「豆腐?」
「そう、豆腐」
「美味いの?」
「食べてみるか?」
「え、いいのかよ」
「いいよ」

ちょっと待ってろ、とどこか嬉しそうに久々知が奥の、恐らく厨房に消えた。呆気にとられつつ、メニューを確認してみる。そこで気づいたがやけに豆腐料理が多い。というかほとんど豆腐料理だ。そうかここは豆腐料理屋なのかと鉢屋は一人で納得してみせる。

しばらく待っていると、お盆に豆腐を乗せた皿を持って久々知が戻ってきた。そして皿を鉢屋の前に差し出した。

「どうぞ、召し上がれ」

俺の奢りだから、と久々知は言う。ただで食わして貰えるのなら遠慮せず。

「頂きます」

鉢屋は箸を取り豆腐に手を付けた。一口一口、丁寧に口に運び味を噛みしめる。鉢屋は別段舌が肥えているわけではないが、それでもこの豆腐は美味いと思った。さすが豆腐料理屋なだけはある。市販で売っているのよりはるかに美味い。

「どうだ?」

鉢屋が豆腐を食べる前で頬杖を付いて眺めていた久々知が問う。

「うん、美味いよ」
「…だろう?」
「ッ!」

美味いと、そう告げた瞬間、久々知は目を細めて愛おしそうに微笑んだ。その笑顔に思わず心臓が跳ねた。

「…これ、お前が作ったのか?」
「ああ、俺が作ったんだ。やっぱり嬉しいな、誰かに食べて貰うのは」

満足そうにそう言った久々知から視線を逸らせ、残りの豆腐を口に運ぶ。気のせいだろうか、心臓が俄かにうるさい。

豆腐を食べ終え、ふと外に視線を移すと先ほどよりも明るくなっていた。

「雨、止んだな」

同じく外を見た久々知が鉢屋の思っていたことを口にする。少し名残惜しく思いながらも鉢屋は鞄を手に取った。

「雨宿りと、豆腐サンキューな」
「ああ」
「それじゃ」
「また、良かったら食べに来いよ」

別れを告げようとした鉢屋に久々知は笑ってそう言った。それに鉢屋も笑って「是非」と答えた。
そんな梅雨入り始めのある日の出来事。