うということ



鈍い痛みが体中に走る。すでにどこが痛いのか分からない程に、もしかしたら感覚が麻痺してしまっているのかもしれないと思った。仙蔵は暗闇の中で静かに呼吸をする。どんなに微かな音でも、今の状態では自らの命を脅かす。

月が出ていない事を幸運に思った。森の中で木の陰に座り込んでいる自分はさぞかし滑稽だろうな。

(学園長も、無理難題の依頼をしてきたものだ)

いくら自分が六年生で成績が優秀だからと言って、これは現役忍者がやるような仕事だろう。そんな事をぼんやりと考えていた。しかし、それだけ信頼されているのは喜ぶべきことだなと無理矢理に自分を納得させる。
今は余計なことを考えている場合ではない。いつ、どこで追っ手に見つかるか分からないのだから。

腹が減ったな、と無意識に腹に手を当てるとどろりと生暖かいものが手のひらに纏わり付き、不快だった。まだ乾いていないのか。溜め息を漏らそうとして、止める。些細な音でも、命取り。

あの学び舎を出たら、毎日こういう危機に立たされるのかと思うとぞっとした。それでいて、心は落ち着いていた。何故?死を覚悟しているから?そんなはずはない。私は死ぬのは嫌だ。
死ぬことが名誉など、妄想にすぎない。死んだら何が残る。何も無いではないか。


体の痛みは一向に引かないが、此処でじっとしている訳にもいかない。
仙蔵が木の幹に手をついて立ち上がった。体の節々が悲鳴を上げたが、そんなものに構っている場合ではない。
一歩、前に進んだ瞬間。

「―――ッ!」

月が、顔を出した。木々の陰を、自身の影を、地面に映し出す。そこにある、不自然な影一つ。

(しまった!)

気付いた時には遅く、風を切る音が耳を掠め、頬に痛みが走った。
カッと後ろの木に棒手裏剣が突き刺さる。一瞬でも気付くのが遅れていれば、顔のど真ん中に刺さっていたであろう。

仙蔵は地を蹴り苦無を手に取った。姿を現した敵は、一人。この場にはどうやらその一人しかいないようだ。つまりは、上手く追っ手を巻けていたということだろう。何故もう少しじっとしていなかったのだろうかと、仙蔵は少し前の自分を悔やんだ。自分は手負い、此処で戦って生き残れる可能性は無に等しい。


仙蔵は、走った。自分はまだ弱い。今の自分では勝てない。それを理解してやるべき事は一つ。逃げなければ。あの学び舎に辿り着けば、追っ手はどうすることも出来まい。速く速くはやくはやくはやく。

成るべく複雑に木々の間をすり抜ける。周りの木に次々と手裏剣が突き刺さった。
しかしそれも柄の間、がくんと膝が崩れ、仙蔵は地面に突っ伏した(嗚呼なんて惨めなんだろうか)。起き上がろうと肘を突いて上半身を起こした瞬間、どしりと背中を踏みつけられて再び地面と対面する。

見上げれば、覆面に顔の間から除く冷たい眼が見えた。心臓を鷲掴みにされた気分だ。自分もいずれこんな風になるのだろうか。…反吐が出る。

(私はもう、手遅れだろうが…どうか、)

どうかあの純粋な少年達は、穢れを知らずにいて欲しい。場違いにも、そんなことを思った。

いつだったか、後輩の一年生二人に言われた事がある。「立花先輩みたいになりたい」と。嬉しいはずなのに、どこか悲しみの方が強かった。嗚呼この子たちはまだ知らないんだ、忍びという役割を。そう思った瞬間、二人に触れるのが怖くなった。
「私みたいにはならなくて良い。優しい忍びになりなさい」それが、仙蔵が声にできた言葉だった。幾ら願っても、それは叶わないと知っているのに。


ぐっと髪を引っ張られ、喉元に刃が突きつけられた。このまま刃が喉に突き刺され、私は死ぬ。そう思うと笑いがこみ上げた。

「ふ、…ははっ」

突然笑い出した仙蔵を不審がる気配が伝わってきた。仙蔵は口角を上げたまま、敵の忍びを省みる。

「誰がくたばってやるものか」
「!!」

敵が刃を振り上げる。しかし仙蔵はその刃が振り下ろされる前に、自ら苦無を振り下ろした。

ばさり

乾いた音が聞こえ、男の刃が宙を切った。仙蔵の髪がその宙を舞う(さあ此れで貴様に囚われていた私は自由になったぞ)

「貴様!」

男が驚いているその一瞬の隙に、仙蔵は小刀を男の喉に突き刺した。その目は男と同じ瞳をしていただろう。血潮が吹き荒れ男は数秒の後、事切れる。
仙蔵はどさりと自分に覆いかぶさるように倒れてきた男を払いのけた。返り血がびっしり顔にかかって気持ち悪い。月明かりに照らされた死体は、なんとも不恰好だ。ああはなりたくないなと単純に考える。

肩にかかっている切った髪を仙蔵は払いのけた。

「…結構気に入っていたのだがな」

所詮髪だ。また伸びる。

「さて、急いで戻ろうか」

次の追っ手が来る前に。



学園に戻ったのは日が昇る少し前だった。帰ってきたそのままの格好で学園長に報告へ行ったらとりあえず医務室と風呂に行けと言われた。
仙蔵は痛む体で足を進める。医務室にもう伊作はいるだろうか?だったら先に風呂へ行こう(凄く痛いだろうなぁ)。伊作に会ったらきっとこっぴどく叱られる。
風呂に行くなら着替えがいる、と仙蔵は部屋へと戻った。

部屋に辿り着き、障子を開けようとした、ら。

「仙蔵…?」

耳によく馴染む声が背後から聞こえた。呼んだ名前が疑問符なのはきっと髪の毛のせいだろう。口元に笑みを作って仙蔵は振り返る。

「夜の自主練帰りか、それとも徹夜で委員会か?…文次郎」
「仙蔵…お前どうしたんだ」

珍しく動揺している文次郎に朝から良いものが見れたと仙蔵は思う。

「怪我もそうだがその頭、一体…」
「ああ、これか。女装の授業で不便になりそうだ」

髪紐を解いた時点で肩上までしかない髪。仙蔵は後で四年の斉藤に整えて貰おうと今決めた。

「これから医務室に行くのか?」
「いいや、とりあえず風呂に行ってくる」
「なっ!?バカタレ!その怪我でか!」
「平気だ。朝っぱらから伊作の小言を延々と聞かされるよりはな」
「心配するだろうが」
「あぁ、安心しろ。任務には失敗していない」
「そういう心配じゃない」

そう言われる前に、意味はちゃんと理解していた。仙蔵は嘲笑を浮かべながら「文次郎」と彼の名を呼んだ。

「私達は、いずれ忍びになる」
「今はまだ仲間だ」
「近い内に過去形になるさ」

日が、昇る。
それを見つめながら仙蔵がぽつりと呟く。

「帰るべき場所に帰ってこれるのも、今の内だけだ」

この心は、きっと直ぐに冷え切ってしまう。あの敵のように冷たい瞳しか持たなくなる。

「私は、それが怖い」