返事がなかった。いや、先程からもう二、三度ほど声を掛けているのに、返事はおろか振り向きさえしない。 トレイの集中力には毎度ほとほと関心させられた。マキナは半ば呆れたような心境で、後ろの机に背を預ける。手元を見ると残ったページもあと僅かのようだし、邪魔してしまうのも良心が痛む気がするのだ。 ――待つのも悪いことではないだろう。 ページをめくるときの紙が擦れる音や、一定のリズムを刻む呼吸音、とくとくと生を証明する自らの鼓動すべて、不快なものではないのだから。微かに存在を残しながら、沈黙に溶解するそれらが今は心地好かった。 「終わりましたよ」 腕を組んで瞑目していると、不意にトレイが言葉を発した。慌てて目を開ければ、いつの間に立ち上がったその人と視線が絡む。マキナは心がぐにゃりと柔らかくなるように感じて、顔の筋肉を緩めた。まったく呆れたものだ、と、僅かに苦く笑ってみせる。 「気付いてて無視か」 「ええ。あなたが立ち去るそぶりを見せたら、こちらから声をかけるつもりでした」 まさか黙って待っているとは思わなかったけれど。そう付け足して、トレイは肩を竦める。お互い様だ。マキナだって、トレイが気付いていたなんて思っていなかった。 「なにを考えていたんです」 「そりゃあ、明日の昼食はどうしようとか、牧場のチョコボ元気かなとか。死にたくないな、とか」 「ほんとうに、悩みがつきませんね。あなたは」 「そうかな。みんな同じだよ」 おそらくは。マキナは顔を俯けて、それから、さきほどトレイが読んでいた本へと視線を移した。装丁も崩れかけの、やけて古ぼけた歴史書だ。授業や作戦で使うものではない。 「少なくとも、私は考えないことです。主にチョコボのことなどは」 「うん。……うん、そうだよなあ」 「マキナ。用があって、私を待っていたのでしょう」 トレイはひとつ咳ばらいをして、マキナの視線をすくった。まっすぐで、迷いなどひとつもないというような瞳に、はっとさせられる。以前友人に「マキナは顔に出る」と言われたことがあるが、なるほどトレイはその逆だった。なにを考えているのかわからない。なにも考えていないようにすら思える。 マキナはなるべく不自然にならないよう、ゆっくりと表情を崩した。 「トレイは、なんでも知ってるな」 「浅学ではありませんが、なんでも、という訳にもいきません」 「ううん、じゃあ、俺よりたくさんを知ってる」 「ええ。おそらく」 「でも、俺の方が色んなこと考えてるよ」 「それで?」 「今日の授業で、ちょっと復習したいところがあるんだ。付き合ってくれ」 /201111032307 回りくどい単純な話 |