市営アパートの古びた階段をのぼるシューズの底が、きんと冷えた空気を微動させて、乾いた音を立てていた。二階の踊り場から下を覗けば、外灯がアイドリングストップの標示をてらてらと浮き立たせている。
――吐き出した息が白む様に、どことはなく似ていると思った。和泉は、吐息に音をのせて小さく笑みをこぼす。コートにしまったままだった両手を外気に晒すと、汗ばんだ手の平が急激に熱を失っていくのを知覚した。一月半ばともなれば、昼夜に関係なく気温は低い。乾燥しきった夜の風が、和泉の髪を悪戯に揺らしては踊らせていた。

指先でそっとベルを鳴らすと、ピンポンと鳴る機械音が、室内から漏れて鈍く耳朶を打つ。すぐそこに人の気配を感じて、解錠された扉が開くのと同時に半歩引いた。
「こんばんわ」
隙間から覗いた顔にひとまず挨拶を済ませば、跳沢は眉をひそめて、露骨に嫌そうな顔をしてみせた。親しい仲にも礼儀あり、という言葉を、跳沢はおそらく知らないのだ。その態度は一体如何なものか、と半ば苛立つ気持ちを押し込めて、手土産の入った紙袋を差し出す。
「せっかく来てあげたのに」
「勝手に押しかけてきたんだろ」
跳沢の手が紙袋を受け取り、「寒いからはやく入れよ」と促されるまま玄関を跨ぐ。運動靴を粗雑に脱いで「お邪魔します」と告げたら、「お邪魔されます」とぶっきらぼうな淡々とした声が返ってきた。
勝手に押しかけてきた、というのもあながち間違いではない。別段招かれた訳でも、頼まれた訳でもなくて、わざわざ跳沢の住居まで足を運んだのは和泉の気まぐれだ。
部活が終了したロッカールームにて、跳沢がチームメイトと談笑するのが耳に入り、半ば割り込む形で会話に交じっては「跳沢、今日家一人なんだ?」「え? ああ、まあ。飯どうするかなって」「じゃあ、俺行くから」「どこにだよ」「跳沢ん家」と、押し切るようにして有無を言わせる隙を与えなかった。
跳沢には兄弟もいないし、和泉の家は両親が在宅であることすら珍しい。それなりに名のある能楽家の長男であらば「稽古には出なさい」と口うるさく言われているが、部活で疲れているからとごまかしては度々サボタージュを繰り返していた。

極一般的な市営アパートである跳沢の家は、多少の窮屈さを感じながらもきっちりと整理整頓されていて、こざっぱりした印象を受けた。生活感の漂うこの家のリビングが、和泉は嫌いではない。
「その辺に座っとけ。夜メシ食ってきた?」
二人掛けのソファに腰を据え、「まだ」と短く切り返す。ほとんど空のかばんを足元に下ろしてから、背もたれを振り返ると、跳沢が奥のキッチンに立つのが見えた。
「食っていくだろ。簡単なもんしか作れねえけど」
「え、……お気持ちだけで充分で」
「ケンカ売ってんのか」
言うなり、キッチンから物音が聞こえはじめた。ガスコンロが点火する音、戸棚を開け閉めする音。生意気にも手慣れた動作で繰り広げられていくそれは、有無を言わせぬつもりらしい。普段は短気なくせに、他所にも気を配れるのが跳沢の良いところではあるのだが。
小さく息をつくと、和泉は下ろしたかばんから、部活帰りの書店で買ったサッカー雑誌を取り出した。表紙をめくれば、イタリアの一部リーグで日本人が得点を収めたという記事が大きく取り上げられている。
「ねえ、とびさわ」
「なんだよ」
じゅう、という音が絶え間なく続いて、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。それに紛れて、跳沢の不機嫌な返答が鼓膜を揺らした。
手元の雑誌を、一ページ送る。
「俺、サッカーやめるよ」
「あー、そう」
他に何か言うことはないのか。一瞬思ったが、そんな考えはすぐに消えてなくなった。代わりに音が止んで、程なく跳沢が湯気の立つ皿を運んでくる。
――最初から決めていたことだ。キャプテンの貴志部以外に話したのははじめてだが、ここまで気のない返事をされるとは思わなかった。
管理されないサッカーに、価値を見失ったわけではない。泥臭く汗にまみれてボールを蹴るのも、別段嫌いではなかった。
「家、継ぐんだろ」
テーブルに置かれた炒飯。向かい側に座った跳沢を交互に見て、思わず笑みがこぼれた。
盛り付けは決して綺麗とは言い難いし、野菜はぶつ切り、ところどころ焦げていて、お世辞にも丁寧に作られているわけではない。けれど。
「……おいしそう」
「いいから、さっさと食えよ! 恥ずかしい奴だな」
「はいはい。いただきます」





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