32「離す想い近付く想い」
◇◆◇
その晩。
ピンポーン
「はーいどなたっすかー」
豹吾はエプロンに鍋つかみを持った姿で、玄関へと向かい扉を開いた。
「こんばんわ、豹吾」
「美園さん。こんばんわ〜虎兄ぃ二階にいるよ」
「ありがと、お邪魔するね」
美園は靴を脱ぎ律儀に方向を揃える。
「お、今日はシチューかぁ」
通り過ぎるリビングの前で、シチューの香りを嗅いだ。
「当たり〜!晩飯食ってきなよ」
「んー、じゃぁご馳走になろっかな?豹吾の手料理は絶品だからね」
「またまた〜!美園さんの大盛にしてやるよ♪」
乗せられ鼻歌を鳴らしながら豹吾はキッチンへと戻る。美園はクスリと微笑みそのまま階段を上がって行く。二階に上がり直ぐ脇にある扉を軽くノックした。
「虎。入るぞ」
…返事がない。いないのか?
そう思ってノブに手をかけ扉をスライドさせると、部屋は暗闇だった。しかしぽつんと赤い火だけが浮かび、人がいると知らせてくれる。
美園は部屋のスイッチを付け、その赤く灯っていた場所を見た。灰皿の上に、一本の煙草から灰が連なった状態で置かれている。さっきの赤い灯りはこの煙草の火だろう。そのままベッドに目をやると、虎がうつ伏せで寝ている。
「虎?」
いや、これは寝ているんじゃないと、美園は分っていた。
何かあったな…
長年の付き合いの勘は、すぐ様そんな虎を見抜いていた。
鞄を床に置き、そっとベッドの脇に座り込む。
「どうした?虎。話聞くぞ」
ピクリと一瞬反応を示した虎は、ゆっくりと体を起し美園を見た。少し赤く腫れた下瞼を見て、美園は大きな手で虎の頭をポンポンと撫でた。いつもなら「子供扱いすんな」と振り払うが、今はそんな気力は持ち合わせていない。
煙草を吸おうと手を伸ばしたら、美園に取り上げられてしまう。
「身体によくない、それに未成年だろ」
「…じじくさい」
「なにを、俺はまだ27だ」
「2ヵ月後28歳だろ」
「言うな…」
ハハっとお互い笑い、虎は少しばかし気分が晴れたのか美園の横に腰を降ろした。
「フラれた」
虎の一言に、美園は目を丸くした。
「虎がフラれるなんて珍しいな」
「まぁ本人からじゃないんだけどねー」
テーブルに置かれていた湿気たお菓子を一つ摘み、口に放り込む。
「次、きっと見つかるよ」
その言葉に、次は虎が目を丸くし、緩く笑った。
「次…か」
虎の一言に、美園は本気だったんだなと察する。もう余り触れない方がいいなと思った美園は、いつものストレッチ等を行う。
左肩に刻まれた大きな傷跡を見て、美園はふとある出来事を思い出した。
その傷は昔、虎と母が事故に巻き込まれた時のもので母はもうこの世にはいない。幼かった虎には事故当時の記憶は僅かしか残っておらず、傷だけが当時の凄まじさを物語っていた。一時はもう動かないとまで宣告された左腕。しかし、リハビリを重ね日常生活は出来るようになったのだ。
しかし思春期の頃からリハビリも止めてしまい、若干の後遺症が消えないままだ。
全身を線で繋がれ混沌とした意識から目覚めた時、母が居なくなったと言う現実に涙を流した幼い虎。
あれ以来だな涙を流したのは…と、美薗は何とも言えない気持ちになった。
「ん、やっぱり徐々にスムーズになってる」
「そうか?あんま実感ない」
自分で肩を揉んで左腕の動きを見てみるが、虎には判らない。この完全に上がらない左腕を不憫に思った事などないからだ。
一通り終えると、リビングから豹吾の晩御飯を知らせるお呼び出しがかかる。
「さて、下降りるか」
先に立ち上がった美園は、虎に手を差し出してきた。
「え、なに?」
「煙草、没収」
「え〜っ」
しかし、そこは素直に煙草を渡す虎であった。
食卓に着くと、珍しく親父も帰っていて家族と美園も含め四人で食事をした。なぜか、美園の皿には溢れんばかりのシチューが盛られていた。
食事も終わり、美園も帰って虎は風呂に入る。
実は、美咲と別れてから携帯の電源を切ったままにしていた。遥は今日の事をきっと知らない。それは、いつも来るメールを避けなければならないのだ。無視したらいいのかもしれないが、そんな事も出来る筈が無く虎は電源を切り連絡手段を途絶える方法しか思い浮かばなかった。
──まだ数時間前の出来事。
余り実感が沸かず、虎は不思議な気持ちでいた。
風呂あがって、寝て、起きて…
また明日も日常がくる。
だが、そこには遥と言う存在を忘れなければならなくて、きっと、じわじわと悲しみが押し寄せてくるのだろうと思った。
今はまだ実感がないだけ…。
◇◆◇
「お疲れ様でしたー」
遥はバイトも早めに終わり、ロッカールームで携帯を開いた。
「あれ、きてない…」
受信ボックスにはいつもある筈の虎の未開封のメールが、そこにはなかった。
「忙しいのかな」
そう思い、携帯を閉じると服に着替えて店を後にする。
来週いよいよ終業式で、クリスマス、冬休みかぁ、と白い息を漂わせた。
「虎さんクリスマス空いてるかな」
冷たくなっていく頬を両手でさすりながら、歩道を渡る青信号を待つ。
もう一ヵ月は会ってないし、みんなでクリスマスパーティーとかしたいな。あ、プレゼント買おう。渡したいからって理由で会えないかな?
「でも、美咲許してくれるかな…」
そんな思いを一人巡らせていたら、いつの間にか青になっていたのに気付き点滅する信号の下を急いで渡った。そして、いつも美咲が待つ電話ボックスに辿り着く。
「美咲ー」
手をあげ名を呼ぶと、美咲は遥を見るやいなや駆けてきて抱き締めてきた。遥の胸に顔を埋め、小さな力で抱きしめてくる。
「どうしたの美咲?」
ポンッと背中をさすりながら抱きしめ返すと、美咲はひょこっと顔をあげて悪戯な笑顔を見せた。
「寒い!凍えるかと思った」
すりすりと鼻を遥の胸へ擦り付け、なんとも可愛らしい仕草をする。
「これでも早く終わったんだよ」
美咲の体を引き離し、帰ろうかと方向を変える。
「なんで離すの?」
美咲は遥に問いかけた。
「え、別に…、寒いから早く帰ろうと思って…?」
「…ううん。それならいい」
先行く遥を小走りで追いかけ、手を握る。しかし遥はどこか落ち着かない様子。
「なに?どうかした?」
「う、ううん。何も」
そう言うと美咲の手を名一杯握りしめ帰宅路を歩む。
なんだったんだろう、さっきの…
それは、先程抱きしめられた時と握られた手から感じたものだった。
…不快感。
いや、思い過ごしだよね、きっと…
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