「私さ、今日こそ登ろうと思うんだけど。付き合ってくれるよね?」 どこに、何に、と言いたがっているのは顔を見れば分かる。でも言わないのは、私がどうせ答えないということを知っているから。さすが私の親友、私のことをよく分かってくれている。 「まあ、行けばわかるから」 あからさまに訝しげな表情は無視して、にこりと満面の笑み。彼女が断れないことも分かっている。 風がなくて良かった。 もう大分高い所まで来てしまった。ここで風なんかに暴れられたら、怪我なんかじゃ済まない、確実に。 梯子で登れるのはここまでだ。鉄格子に足をかけて、片手は梯子をしっかりと掴んだまま、振り返る。 「ねえ…大丈夫?やっぱり危ないよ…」 ああ、親友があんなに小さく。かすかに聞こえた声を見下ろして、大きく手をあげた。あのか細いイメージの彼女がこの距離まで聞こえる声を発するなんて、そうとう心配しているのだろう。私は平気だって、というサインの意を込めて、手を振る。 さて、と視線を戻す。一面に広がる緑、その隙間から覗く水面。昼と夕方の中間の空を反射して、程よく水色と橙が交ざった美しさは、溜め息が出るほどだった。区切られた細い道には、畑仕事用の車が停められている。 この水田の眺めも、遠くに見える森や山々も、蛙たちの合唱すらも。田舎っぽくて嫌だ、という人もいるけれど、私はこの風景が好きだった。 昔から馴染んだこの景色をふたたび堪能して、私は一度だけ深呼吸をした。 これを、あの子に見せてあげたかったのに。 スカートのポケットから、デジカメを取り出す。 肉眼で見るのには到底かなわないけれど、少しは近付けるはずだ。こんな素晴らしい風景が世界にはあるのだと、少しでも分かってくれればいい。そう願いながら、レンズを向ける。 何枚も何枚も、夢中でシャッターを押した。角度を変えて、光の露出を変えて、色味を変えて。あの子に見てもらうのだから、少しでも良いものが撮れるように。 ふと気付いたときには、夕日が沈みかけていた。 親友の、相変わらず心配しているふうな叫びを聞きながら、デジカメの電源を落として、ポケットにしまった。そろそろ帰らなくては。 と、 その瞬間、遠くで、木々がざわめく音を聞いた。 あれ、と思って、ひねっていた腰をもとの向きに戻したときには、もう遅かった。 目の前から巨大な風圧が飛びかかってくる。落ちないようにと意識して、強く梯子を掴んでいた手も、すっかり痺れていて意味を成さなかった。 ふわりと体が浮く。 あの子が駆け回るときも、こんな感じだったのだろうか。 先程まですぐ近くにあった梯子と、頭上にあったはずの電線をぼんやりと眺めながら、頭が重力に引っ張られる感触を不思議に思った。 親友の尋常じゃない叫び声が聞こえて、すこし申し訳なく思う。あのとき、彼女の制止を聞き入れていれば、こうはならなかったのだろうか。 私は落下している。 あの子のもとへ近付いている、と思うと、自然と笑みがこぼれた。 私は死んでしまうのだろうか。 否、死んでしまったのだろうか? はた、と思考が止まる。 死? その言葉を何度も何度も復唱して、 やっと、 恐怖に覆われた。 死にたくない、と、 無意識に呟いたとき、親友が泣き叫びながら私の名を呼んでいるのを、どこか遠くで聞いた。 指先がちくりと痛んだ。 霞む意識をどうにか奮い起こし、瞼を持ち上げた。 成す術もなくそばで泣きじゃくっていたらしい親友が、私と目が会うなりまたよく分からない叫び声を発して、わっと抱き付いてきた。肩に鈍い痛みが走ったが、苦笑いしか出来なかった。 生きている。 あの子のもとへは行けなかった。 自分でもよく分からない複雑な気持ちを持て余していると、指先の痛みを思い出した。 そこを眺めると、掌になにか柔らかいものが乗っている。なんだろうか。 掌には、白い綿毛のようなものが乗っていた。さらに目を凝らしてみると、それは羽毛であった。 絵としてよく描かれるような、そんなしっかりした羽根ではない。 小型の鳥類の、可愛らしい小さな羽根だ。 そして指先には、何か尖ったものが食い込んだ痕があった。ひとさし指の腹に、ふたつ。 (そういえばあの子は……噛み癖がいつまでも直らなかった) 私が無傷で済んだ理由を、瞬時に理解した。 あの子が。 あの子が、ここにいたのだ。 原理は分からないけれど。あの子が私の側にいて、鉄塔から落ちた私を、助けてくれた。その事実だけを、直感的に悟った。 涙が零れた。 止まらなくて止まらなくて、あの子の名前を叫びたくなる。だがその瞬間に、それを制止するかのような強い風が吹いて、声にはならなかった。その風が、心地良い温もりを帯びていて、 あの子に、名前を囁かれたような気がした。 (―――――生きて) 肩が痛い。 まだ私を抱き締めたまま、泣きじゃくる親友の背中をさする。これじゃ、どっちが死にそうになったのか知れないではないか。 (大丈夫) 指先の痛みはもう無かった。あれ、と思い目をやると、いつの間にか痕も消えていた。 (わたしは、生きるよ) 帰りに、あの子が好きだった餌を買っていこう。それくらいの寄り道は許してくれるだろう。 病院!と泣きながら怒る親友の姿も容易に想像できるが、大丈夫だろう。私は平気だという確信さえある。 私は―――生きているのだから。 羽根を閉じる場所 /090827 (title:たかい) 亡きラブバードへ |