ずる、と何かが擦れる音がした。同時に荒くなった息が聞こえて、何となく不穏な空気が漂ってくる。深夜も深夜の真・帝国学園。寝付けずに校内をぶらつくような奴が、自分のほかにもいるのだろうか。
「誰かいるのか」
とりあえず発してみた声は、静まり返る廊下にひどく反響した。予想以上の響き具合に内心たじろいでいると、微かにしか聞こえていなかった息遣いがぴたりと止んだ。ぞくっと背筋が震えたのは、暗闇からでも感じ取れるほど強い視線がこちらへ向けられたからだろう。
「……ハッ、てめえかよ、源田」
吐き捨てるような話し方と、癖のある声質。「不動か」色々と尋ねたいことはあったが、とりあえず一番最初に出てきた疑問を投げかけてみる。「どうしてこんなところにいるんだ?」
目を凝らせば、声がした場所にうっすらと不動の輪郭が見える気がする。ドッという重い響きと薄く息を吐いた音がした。不動が壁に体重を預けたのだろう。
「…こっちの台詞だ。何時だと思ってんだ、今」
抑えているつもりなのだろうが、不動はやはり息が上がっている。まさかこんな夜中に、一人こっそりと練習に勤しんでいた訳でもあるまい。ならば何故、と不動がたった今歩いてきた方向を思い出して、はっとした。
「……不動、総帥のところに行ってたのか?」
「てめえには関係ねェよ。さっさと失せろ」
暗い影の中から一向に動く気配のない不動に、源田は得体の知れない焦燥を感じた。部屋に戻ろうと提案しても、やはり不動は「先に行ってろ」の一点張りで、頑なに姿を現すことを拒む。声と雰囲気しか判断材料が無い今、そこにいる彼は本当に不動明王という人間なのか、とさえ思った。そのまま立ち去るには些か不安が残りそうで、源田は不動をここから連れ出そうと決めた。
「明日の練習にも支障が出るぞ。戻ろう、不動」
ひたひたと不動との距離を詰めると、不動の周囲の空気が一瞬だけ震えた。暗闇へ手を伸ばすと、不動の細い腕を掴むことができた。振り払おうとするのを無理に押さえ込む。そのままこちらへ引き寄せると、不動がひっと小さく息を飲んだ。
「俺のことはいンだよ…っ、やめろ、源田ッ!」
何をそんなに恐れているのか。いつだって憎らしいほどに余裕たっぷりなこの男が、なぜ今こんなにも、何かに追い詰められているのか。源田はもともと自分にあった好奇心にも手伝われて、不動が恐れている何かの正体を暴いてやろうと思った。悪意などは一切無い、むしろ、苦しんでいるのなら助けてやらなければ。そんなつもりで、源田は不動を仄暗い電球の下へと引きずり出した。

そして見たのは、死人のように白い不動の肌にいくつも浮かんだ、痛々しい鬱血の痕だった。

「………ふ、どう、」
「俺に、触るんじゃねェ」
ぎっと鋭く睨まれる。源田はその瞳から目をそらせないまま、不動の腕を掴んでいた手から力が抜けるのを感じていた。首筋や項、鎖骨の辺りや二の腕にまで散っていたそれが目に焼き付いて、残像がちかちかと煩い。
(総帥、が、)混乱する思考は収拾がつかず、今目の前にある光景がどのような意味か判断できなかったけれど、一点だけ、直感で理解した。(総帥、が。不動に、これを、)それが為されるというのはどのような行為か、それまで分からないほど源田は疎くなかった。ただ、ぼんやりとしかイメージしていなかったものを突然眼前に突き付けられて、脳の処理が追い付いていないのだった。受け入れることができずにいるのだ。名前を呼んだ口のまま呆けている源田を見て、不動はわざとらしく溜め息を吐いた。重たげな体を引きずり、源田の横を通り抜けて、吐息のような声で、言った。
「てめえの、そういうところが嫌えなんだよ」

ならば、何と言えばよかったのだ。あの真っ赤な痕を見た俺に、何と言ってほしかったのだ。違うんだ、不動、言わなかったんじゃない。言えなかったんだ。そう言おうとして、はたと気付く。それこそ、彼の望んでいる言葉ではないと。(結局、不動だって)不動だって、俺の心情など知り得ない。総帥にどんなことをされているかなんて俺には何ひとつ分からない、けれど俺は、傷付く仲間を見ていることなんてできない。そうだろう不動。お前は傷付けられているんだろう?
ひとつの到達点を見つけても、源田の周りにあるのは無機質な壁だけであった。振り返っても不動の姿は無い。冷たさしか感じさせないコンクリートが答えをくれる筈も無く、もやもやとした疑惑と、目に焼き付いて離れない不動の青白い首筋とが、源田の思考を支配していた。やはり眠気は訪れそうにない。




ただ弱かった、それだけ /100318
(title:mutti

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