(きっと、あの人は来てくれないでしょうけど)


眠りから覚めたときの、夢の記憶がぱらぱらと崩れていくような感覚は、何かに似ている。待ってくれと引き止めれば引き止めるほど、手元から離れていく。輪郭の曖昧なものは、全てにおいて、こちらの願いを受け入れてはくれないのだ。
ああ、しかし妙だ、悪夢というには少しばかり違うが、べつに良い夢でも無かったのに。そうでなくとも、もう年老いた自分の脳に夢の記憶が残るのは珍しいことだった。
(何時の事だったかな、)
そう、あれは、
彼女が永遠の眠りにつくことに繋がるあの願いを、あの男に告げる少し前の話だ。





「平介さん」
植物に囲まれたテラスで読書をしていた。その本の見開きに、見知った人物の影と声が落とされて顔を上げると、きらりと光が目に入って、反射的に目を細めた。
ふんわりと微笑むその女性は、冬だというのに肌荒れなど見つかりそうになく、むしろ自分の目にはその白さと、美しくなびく黒髪とのコントラストが眩しい程だった。話があるのだろうと察し、読んでいた本はテーブルの上に閉じた。向かいの椅子を勧める。

「私ね、あの人にこの間のチケット渡してみたの」
ほら前話したじゃない。映画か何かに誘ってみて、それもダメだったら、もう試すのはやめるって。

その椅子に腰を落ち着けたかと思えば、こちらの相槌も確認せずに、いつも以上に喋っていた気がする。今思えばそれは、そうでもしないと涙が零れそうだったのかも知れない。あの人は私の事を嫌いになったのかもしれない、などという幻影に囚われて、彼女はだいぶ前からおかしくなってきていた。あの男を試すような事を、思考の限り行ってみせた。
それらがすべて終焉したときに何が起こるのかは、自分にも想像出来なかったけれど。
あの男の事を考えている時の彼女は、痛々しくも幸せそうに笑っていた。彼女がおかしくなっていくのに比例するように、その笑顔も、残酷なまでに美しかった。


「きっと、あの人は来てくれないでしょうけど」
語尾が震えたのは気付かなかった事にする。無言のまま続きを促すと、彼女は静かに目を伏せた。
「…不思議ね。平介さんにはこんな事も話せるのに」
心臓が、ドクン、と、跳ねた。

 「私が一緒にいたいのは、どうしてかあの人なのよ」





「先生、?」
同じだけれど違う、彼女の声に現実に引き戻された。大丈夫ですか、と尋ねる心配そうな視線に、自分がいま何をしたのか、ぼんやりと思い出した。
「…ああ。悪いことをしてしまったな」
足元を見ると、小さな植木鉢が、土とともに砕けて散っていた。それを眺めているだけなのに何故だか、不快さと、少し同情が混同したような、複雑な感情を持て余した。
分かっていることなのに、何らかの形で衝撃を受ければ無惨に砕けてしまう。惨めで、滑稽で、すぐに輪郭を失ってしまう。まるで自分を見ているようで嫌になったのかもしれない。ふ、と自嘲的な笑いをこぼしながら、靴の上にも散らばったそれらを地面に払い落として、姿だけ同じ彼女に、今度は心からにっこりと笑いかけた。

「加賀見くん。お茶にしようか」





星の虜に成り下がる /091114
(title:けしからん)

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