一目惚れをした沢北の話


 9。俺の背番号。今あの子のまなざしが注がれる書棚のナンバー。
 腕を伸ばすと袖ぐりからほっそりした二の腕が俺の位置からよく見える。寒くないのだろうか。冷房、ガンガンに効いているけど。ってかなに見てんのかな。傍から見ても分かるぐらい集中していて、本が好きなんだろうな、と、頬杖をつきながらぼんやりと考えていた。
 カウンターそばの椅子に腰かけている。自動ドアが開くたび、しめっぽい夏が館内に入り込んでくるのを肌で感じた。たとえば、今年一番の最高気温、耳を塞ぎたくなるような蝉しぐれ――って日本語で使い方あってる?――、夏休みを満喫しているらしい小学生の笑い声、とか。夏は、でも、ドアが閉じれば締め出されてしまう。図書館はこうも静かなのか。バーコードを読み取る電子音や薄っぺらい紙の擦れ、利用者のひかえめな足運びと、あと特に響いているといえばエアコンの稼働音くらいなものだ。学校の図書室ですらほとんど利用してこなかった。比べようもない。小学生のころ、きゅっ、きゅっ、と、踏み鳴らした上履きの高い声はなんとなく覚えている。でも、他に印象深いなにかはなかった。ほとんど疎遠。埃っぽいような、清潔なような、嗅ぎ慣れないにおいが充満していて居心地悪い。なんにも向き合うことができず、ひとり、ただただ座っているだけの状況は仲間はずれみたいで嫌だ。俺に優しくしてくれない場所。
 ……別に、図書館が嫌だからというわけではない。図書館ではなくたって、まず俺はコートに立っていたい人間なんだ。要はガラじゃないということ。読みたい本なんかないし、宿題は持ってきていないし、借りるための貸し出しカードだってそもそもない。暇。作成のための申請用紙を指でもてあそぶ。
 ことの発端について。深津さんにスポドリをぶっかけてしまった。
 断じて言う。わざとじゃない。躓いてしまっただけである。オーバーワーク気味でふらふらだったから。いけなかったのは、相手が他のだれでもなく、よりによって深津さんだったということ。そのとき深津さんは本を読んでいたということ。しかも深津さんのものじゃなくて、図書館から借りたものだったということ。最悪だよ本当に。
 今日の目的は、本を借りるためでも返すためでもない。謝罪しに来たのだ。
 頭を鷲掴みにされつつ、腰を九十度に折った。すみませんでした! 明瞭に、大声で言ったものだからちょっとだけ注目された。司書さんたちはごわごわの本を受け取り、協議をするので本を見ながらお待ちください、と館内を示した。
 座ったまま、書棚に並ぶ背表紙を眺める。よく分からない数字の羅列。深津さんは俺を置いて小説を見に行ってしまった。小説って何番だろう。本はすべて区分されていて、それは日本ならではのもので、みんなが探しやすいように昔のお偉いさんたちが決めたものなのだと聞いたことがある。これを覚える時間があるならバスケにあてたい。俺は唇を尖らせる。
 物色はしてみた。興味が湧くタイトルはなかった。
 代わりに、目に留まる人はいた。
 女の子。
 知り合いとは違う。名前も知らない。山王生では、多分ない。制服を着ていないけど、年齢はたいして変わらなそうに見える。カウンター近くの書棚には郷土資料とあり――9、って、区分の中でもどうやら早い方の数字っぽい――、ずっとその前に佇んでいる。高いところにある本の背表紙に爪を引っかけ、くっと一瞬だけ力を込め、棚から引き抜く。器用だな。ページをめくって読む。戻す。引き抜く。読む。何度も何度も。関心が向いてからずっとこの繰り返しだ。俺たちの視線は交わらない。彼女は俺の存在に気が付いてもいないのである。
 ありがちなこと。ひとえに本を借りる、という場で、だれがその場に居合わせた赤の他人を気の止めるだろうか。……ってか、俺はなんであの子のこと、こんなに見てんの?
 自分でもわけがわからぬままに彼女の動作を目を焼きつける。たまたま、俺が今日ここにいなければ、出会うことすらなかった子。しおりをつまむ爪が短い。文字列を追う瞳の色素も薄めだ。少しだけ日に焼けた肌が目立っていて、ふっ、と健康的な横顔が満足げに緩む。
 あ。
 笑った。
 窓は閉め切っていて、ドアも開いていない。なのに空気が入れ替わる。
 ぱたん、と本から埃が舞った。
「沢北」
 深津さんの声がしたとほぼ同時。その子は荷物を背負い直し、移動した。数冊の本を手にした深津さんが歩いてくるのが見えた。借りる気かな。今って、本を弁償するかしないかって話の最中だよな。やっぱすげえな、胆力。いや俺が悪いんだけど。さっと彼女が俺の脇を通りすぎていったのを横目で確認した。
 貸し出しカードの申請用紙に目を落とす。記入欄の裏面。原則として、返却期限は二週間、とある。そうか。本を借りれば当然返しに来る必要がある。筋合いはなんだっていい。深津さんについていってまたこの図書館へ訪れれば、二週間後、彼女に会えるかもしれない。そのとき話しかけよっかな、なんて。ナンパかよ。でも、気になったのだ。どんな声で笑うんだろうって。
 館内放送が響く。深津さん、沢北さん、カウンターへお越しください。裁きのときだ。ひと息吐いて立ちあがり、はた、と、気がつく。
 あの子、本、持っていたっけ。
 まっすぐ出口に向かっていなかったっけ。
 椅子が傾いた。膝で床を押す。ぎゅっ! と、鈍い音がした。なるほど。走るとこんな音がするんだな。静かにしろと怒られるから今まで歩いてばかりだったと思い出す。なついなあ。ぼうとした頭のまま、しかし俺は駆けている。背後から声がした。すいません! はっきり謝ったけど、これはしばらく絞られるな。だとして止まれなかった。自動ドアの遅さがもどかしい。やっと外へ飛び出す。夏のお出ましだ。なにもかもがやかましく、溢れていて、輝く季節の中。小さな後ろ姿を見つけた。
「はは!」
 あの子が今日、本を借りなかったのだとしたら、二週間後にふたたびやって来る保証がない――もう二度と会えないかもしれない。そんな気持ちが俺を突き動かす。腕を振る。短距離走でもないのにもう息が上がっていた。なにより俺の心臓がうるさい。たまたま、を、たまたま、で終わらせたくなかった。
 それにしたってなんで俺笑いながら走ってんだろ。特別楽しいことなんか、なかったよな?


〈了〉



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