ヤクザパロの深津の話


「さぼるなピョン」
 怠け者、とわたしを詰る声の主を知っていた。

 月が地球を見放したんじゃないかってくらい、何日も何日も夜になると雨が降っていた。
 雨は好きだ。それ以上に月が好きだった。
 世界がぼんやりと色づく。多分、どんな人よりも、どんな動物たちよりも、私がいっとう好きなはずだ。見えずとも暗雲の向こうにいることは分かっている。でも恋しかった。会いたかった。その顔を拝んで、見おろし、あの情け深くも冷え切っている光を浴びせてほしかった。わたしに。わたしの終の場と、その過程へと。
 対して今のわたしを照らす街灯のチープさよ!
 傍から見て、どれだけわたしにお似合いなんだろう。諧謔を弄しても笑ってくれる人はいない。公園のベンチはペンキがところどころ剥げていておんぼろに見える。雨だろうと構わず腰かけた。水を吸ってお尻がふんだんに冷たい。肩に引っかけている男物のスーツのジャケットは、上質なだけあってあたたかい。まあ、でも、どうだってよかった。風邪を引いたところでわたしの身を案じる者はひと握りである。
「深津さんだ。どうも、ごきげんよう」
 ビニール傘越しの彼はぐんなりと歪んでいて面白い。
「勤務時間内のはずピョン。さっさと戻れピョン」
「休憩してるんですよ。あと十五分もしないで戻りますから。そう目くじらを立てないで」
 深津さんはいわゆる暴力団員であり、私の勤め先のひとつであるショットバーのお客様だ。静かにグラスを傾けるのを好む――ああいった立場の人に見合った表現かは分からないものの――良識のある男性である。
 片や、質の悪い客もいる。いつのまにか発生、出現する。鼠みたいだ。今宵もそう。
 いくら嬢ではないと言っても聞く耳を持たない。ずぶずぶと脳髄まで酒にのまれたような男性だった。ご機嫌取りも業務に含まれるか否か。アングラに近いサービス業、それでも決して、春を売るお店ではないのに。再三やんわりと注意した。が、とうとう怒鳴り出し、こちらが諦めた。
 服のセンスを褒めたと思ったら、化粧がへただセンスがない特に口紅が合ってないと貶した。お気に入りの色だった。選曲が好みだと褒め称え、次にはでも演奏者の腕が及んでいないと失笑した。それでもいかようにわたしの体を撫で回す。自分のジャケットを脱ぎ出し、わたしに被せ、いくらかましになったと笑う。まったく好き放題の神様。店長が助け舟を出してくれなかったら、こんな薄手のドレスなんてびりびりに裂かれていたかもしれないし、すっぴんになれとのたまったかもしれない。困ったものだ。よくいるたぐいであるのが、これまたやるせないところ。まあ、でも、どうだってよい。そんなことは。
 唸るような低気圧のもと、肌の露出が多いドレスに男物のジャケット、そしてビニール傘を差す女。なかなかさまになっているでしょう、と肩を竦めるわたしに深津さんが近づく。
「脱げ」
 端的な言葉。抗う気はない。こういうときは口答えしないのだ。丁寧に折り畳むが、深津さんは乱雑に扱って雨に晒してしまった。あーあ、と発した声がくぐもる。繊維の集合体越しでは呼吸がしづらい。見あげる。感覚が不足したような深津さんのまなざしは癖になる。その彼が、ジャケットをわたしの唇へあてているのだ。突然、そのまま動かしはじめた。上下左右斜め擦って擦って擦られる。縦横無尽。唇が削がれてしそうな勢いであって、わたしは呻き声をあげて抗議した。シカトされた。
 深津さんがジャケットを取り上げたころには、わたしの口周りは痛みを感じるほどになっていて、腫れていたろうし、十中八九口紅が落ちてしまっただろう。べったりくっついて汚れたはずだ。
 げんなりした。弁償しなくてはならない。
「俺がクリーニング代を払うと言えば済むピョン」
 あなたはあの手の面倒臭さを知らないから。わたしが眉をひそめると、深津さんは、知ってるピョン、と答えた。今度は己の唇でわたしの唇を覆った。舌がわたしの口の端をぐるりと一周。体が跳ねる。ひりつく。耐えられないほどではないにせよ身を退けば、股に片足が差し込まれた。右腕は腰に回り、左手でわたしの耳たぶをいじっている。
 彼とのキスは、どうでもよくない。好きだ。
 ため息はこそばゆさが背筋を駆けのぼる感覚にとけた。でもね、今、わたしが傘を手放したら二人してびしょ濡れなんですからね。そんな文句も、一緒くたになって消えた。
 ややあって。熱を帯びた吐息をこぼす。表情の変わらぬ深津さんがずいっと銀色のものを取り出した。手のひらにおさまるサイズ。見覚えがあった。
「……深津さん、メイクポーチ漁りました? それかアパートの化粧棚?」
「漁るか。新しく買ったやつピョン」
 愛用している口紅とまったく同じもの。らせん状の筒のデザインが、陳腐な灯りを受けて綺羅と目を突いてくる。深津さんはキャップを開け、捻り、数ミリ出し、わたしの唇に施しはじめた。土砂降りの雨が降るおもてで、むいむい、という具合に塗ってゆく深津さんとわたし。どんな図なんだろうと不思議になる。
「つくづく思う。これはなまえにふさわしい。お前のためにある色だ」
 だから俺も持ち歩く。こうしていつでもキスできるように。
 確かに、深津さんのほの昏い虹彩の中、この口紅はとても際立っていた。悪目立ちじゃない。彼に添って、互いを引き立たせるのだ。軽薄なピンク色は店内のライトとのバランスを考慮してのチョイスだった。万人受けするような色じゃないと自覚している。好き嫌いが分かれやすい。此度の神様がそうだったように。他人の意見は気にならなかった。彼がよしとしてくれるのならば。
 でも。反射的に声が出てしまう。口答えはしないと決めたはずでは? わたしがわたしを馬鹿にしてくる。似合わないと言われたんです。あなたがそこまで言ってくれたのに。声まで雨を吸ってしまい、したしたに濡れてしまっていたからなおさら笑われた。
「それで、お前はどう思ったピョン」
「……悲しくて、悔しかった」
 深津一成。
 静かで、油断ならず、暗雲に隠れた月のような男。大海の満ち引きを統べるだけの力をもつ人間。
 だれもが彼を見あげる。彼は多くを見おろす。あんなに遠く離れた存在であって、しかし彼はわたしを認めた。わたしは彼の女で、彼はわたしの男だった。だがどうせわたしは地上にいる。天の思惑などもとから計り知れない。見放すときが、いつか訪れるのだろう。捨てられるときは捨てられるだけ。ともにあってもいいなら、ともにありたいだけなのだ。
 ふと、流れるような所作で深津さんがわたしの腰を抱く。十五分経ったらしい。水たまりを蹴り、職場を目指す。
 そいつには俺から注意しておくピョン。おいたもほどほどにしろ、と、な。深津さんと歩みながら、考えた。注意って、口頭で? 腕づくで? 当然の疑問だった。思い返す。だって、今まで出会った神様――わたしを見縊り、こき下ろし、好き勝手した害獣たち――はだれひとりとして二度来店していない。
「なにする気なの、深津さん」
 深津さんは黙ったまま。
 ねえ、どうして神様が面倒だって知ってるの。
 あなたは今まで、わたしのために、なにをしでかしてきたの。
 言葉にすべきでない。超えてはならぬ一線だと理解していた。声にしなかったのに、でも深津さんはわたしを見おろす。うぬぼれ、と呟く。優しい声だった。彼はまたわたしの唇を食んだ。色が移らないくらい、軽いやつ。
「口も腕も、全身冷え切ってたピョン。風邪でも引いたらどうする気だったピョン」
「だれか優しく看病してくれる人を探しますよ。深津さんならなにをしてくれるんですか?」
「俺のベッドから出してやらない」
「わあ、手厚い!」
 明日もわたしは月を待つ。月のために化粧をする。彼がわたしを見おろすせつなを、今か今かと待つ愉しさたるや!
 ぽとん。
 音がした。鼠が月を見あげたのだ。目を奪われたのだろう。すぐそばにあった穴の存在に気がつかず、足を踏み外し、下水道へ真っ逆さまに落ちていったに違いない。まあ、でも、どうだってよいのだ。そんなことは。どうせ駆除の対象であるのだから。


〈了〉



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