もう少年ではない孫悟飯の話


 魂がさざめく。胸の奥に住まうたくさんのなにかが、一斉に翅を構えた。
「どうしてですか」
 詰るような物言いの悟飯くんに見おろされる。煩悶と悲痛を湛えた、心許ない幼子みたいな面差しだ。
 昔。あのひと夏。
 ふたりで昆虫採集に出かけた思い出がある。
 自由研究なるものをやってみよう。そう、持ちかけた。わたしは悟飯くんの家庭教師を務めていた。彼は小中学校へ通っておらず、宿題でも義務でもなんでもなかったけれど、将来学者さんになりたいならやっておいて損はないかもしれない。虫が好きなら、飼育日記をつけるのはどうかな。きっと楽しい、と。言いくるめ、チチさんの許可をもらった。飛行機で出かけたのだ。彼は飛ぶことができ、交通機関を利用するほうがかえって手間であった。「でも、なまえさんともっと話したかったから」と、頬を掻いていたのが当時十二歳。平均的な身長と充分すぎる体格。礼儀正しい優等生で、気遣い屋さんでもあった。初対面から早熟したような印象を受けてはいたが、一時、彼はただしく子どもだった。だからわたしも保護者でいられたのである。
 昼のあいだは島中を駆け回り、思う存分虫たちを捕まえた。みな大ぶりな個体ばかりだった。夜になり、採集は観察へと移った。湖のほとりを見守る。夜行性の蝶、あるいは蛾が集まって水を飲んでいた。「きれいですね」「うん、すごくきれい」小声であったのに、めったに人が訪れない場であって、虫たちは空気の振動に敏感だった。しゃん。みないっぺんに翅を広げた。数百、数千もの羽ばたき。舞う青色の鱗粉のグラデーション。あとに残る清廉な水面。鏡合わせに映った星々の凄愴さ。
 前のめりになるのをなんとか堪え、悟飯くんの方を見る。ばっちり、目が合う。
「悟飯、見た?」
「は……はいっ!」
「なんて光景だったんだろう。期待をはるかに超えていた。うつくしかった、本当に……」
 頷き、
「はい、だけど、僕は……かわいい、とも思いました」
 と、こわごわと述べた。どこか怯えているようで、少年の丸い頭を撫で、わたしはほほえみかけた。
「素敵な感想」
 月の下。悟飯くんの頬がぶわりと真っ赤に染まったと分かった。照れたように硬直したまま、それでも次いで見せたのは、無邪気な子どもの笑顔であった。
 あのひと夏の夜は二度とない。いつ思い返せど余韻を与え、魂には水が張る。あの蝶たちが逃げないような安寧の心を得たのだ。以後、わたしたちはますます仲がよくなった。うつくしい思い出の中で、悟飯くんは十二歳の少年のままだ。
 しかし、時は流れた。少年は青年へと成長する。
 体格に見合う背丈を得た彼を見おろすことはもうできない。逆に見あげなければならないのである。わたしの手首を力強く握る、目の前の悲しげな青年を。
「なにを怒っているの」
「いつからそんな呼び方になったんですか」
「呼び方」
「悟飯くん、なんて、他人行儀な」
 呆然とした。
 確かに、以前は違う。悟飯、と呼んでいた。
 サタンシティに引っ越してから約三年か。彼がこちらのハイスクールに編入する話はチチさんから聞いていた。ひととき親しかっただけの年上の女からの呼び捨ては、さすがに馴れ馴れしいのでは? 年ごろの男の子であるし、と、深く考えずによしとしていた。
「くん付けは嫌?」
「はい」
「どうして」
「遠い、と感じるからです。貴方が引っ越して以降、何年もろくに会えませんでしたから……これ以上、距離を置かれるのは耐えられないんですよ。むしろ、どうして呼び方を変えようと思ったんですか?」
「あなたに軽薄なふるまいはしたくない。それに、多感な時期でしょう。人目は気にならないの?」
「本当に、それがすべてですか」
 重い響きだ。こんなに低い声が出せるようになったのだな、と頭の隅で思う。手の力は弱まるどころか強くなる一方だった。
「……貴方がここへ挨拶へ来る以前にね。街で見かけたんだよ。三日前かな。編入の手続きで、だと思うんだけど」
 ぱち、と彼がまつ毛をはためかせた。
 心の中で息を吐く。今、自分がどんな表情になっているか。鏡なんて必要ないのだ。
「あまりにも立派に、かっこよくなっているから、無理やりにでも一定の距離を作らないと」
 魔が差してしまいそうで。
 尻すぼみな言葉の、なんと情けないこと。
 顔に熱が集中する。沈黙。居たたまれない。もろもろが破裂してしまうより前に、手を引っ張られた。勢いそのままに厚い胸へ飛び込む。精悍な腕が巻き付いてくる。密着している。抱きしめられている。胸が激しく動きはじめ、水面に波紋が広がる。
「悟飯くん!」
「悟飯」
 そう呼ぶまで離しません、と断言された。
「……忘れて」
「嫌です」
「お願い」
「なら、そんな顔をして、そんなことを言わないでください。忘れるなんて無理ですよ」
 声色は、甘かった。
 心底、うれしい、が滲む。
 この青年の頑固な一面は、今日知った。意識しないところで、素直でよい子のレッテルを貼り付けてしまっていた。わたしがいないあいだ、成長するにあたって迷惑だと彼自身が剥がしたのだろう。まだまだ知らない彼が存在するのだ。
 内なるさざめきを聞く。
「三年前から、わたし、なにも変わっていないよ。きれいでも、うつくしくもない。ただ年をとっただけ」
 蝶たちは散り散りに飛んだ。無色透明で、しかし底には濁りがあって、不恰好で、到底美化などできない魂が白日の下に晒される。
「ええそうです。なまえさんはまったく変わっていませんね。だから、僕だって変われないんです。困りますよ。昔も今も、いつだって、こんなにかわいい。……あの夏。あの夜。僕が貴方の横顔ばかり気を取られていたの、知らないでしょう?」
「悟飯」
 肩に手を置かれ、上半身だけ離される。瞳の中に、無垢な少年の色はなかった。おびただしい情欲めいたなにかが舞っていた。
 男っぽい指が触れる。頬に。唇に。裸の魂が騒がしい。悟飯が、熱い息を吐いた。
「ほら、目が離せない」


〈了〉



- ナノ -