ガンマ1号と平行線にある話


 初恋はほろいがいものだ。
 ならば、と、引き出物はとびきり甘いものを選んだ。旦那も賛同した。老舗洋菓子店名物のバウムクーヘンである。
「五十二年ぶりに口にした」
 挙式ののち。ガンマ1号が連絡をくれた。あたしとなまえは食べものの好き嫌いも近しい。甘党のヘド博士いわく、あの洋菓子店は十年ほど前にメニューを一新した、とのことだ。看板商品のレシピにも手が加わったらしい。味に深みが増したように思う、と呟く彼に、お気に召した? と訊ねる。珍しく喉を震わせていた。
「好きになれるわけがない」

 なまえは珠のような子を産んだ。
 男児であった。とりあげたのはヘド博士だ。
 女の子なら父親に似、男の子なら母親に似る。顔立ちは、生物学的統計による可能性の高さと反した。代わりであろうか、男児は、なまえの胸のうちにある長所を写してやって来た。だれかをひたむきに愛する才能。愛されるだけの受け皿を備えていること。それでいて愛に甘えず、過信もしないなどといった点が、特に色濃い。不可思議なエネルギーに溢れた男児は、順当に成長し、運命をともにする女性と結ばれ、やがて女児を授かった。あたしだ。その男児はあたしの父で、なまえはあたしの祖母なのである。周囲の人々は口を揃えてこう言う。お前はなまえの生き写しだ、と。

 世界に名だたるカプセルコーポレーションにおいて。祖母とガンマ1号は出会った。
 天才的な科学者ではないが、ひとりの立派な勤め人であった祖母は、雇われたばかりの彼と一番に心を通わせた。その縁で創造主たるヘド博士とも仲が良くなった。築きあげた絆は世代を跨ぐ。
 お前も、お前の父親も、日の傾く頃合いに産声をあげた。あの、獰猛で、まばゆい夕陽を、私は忘れない。彼女の出産、つまりはお前の父親の誕生のとき、夫は立ち会いに来なかった。彼女の指先は青褪めていた。仕事を優先してとわたしがお願いしたの、と。肩で息をしながらほほえむ彼女を見て、私は激高した。夫相手にだ。病院を飛び出た。コンマ一秒ごとに変化してゆく空の色が、なおのこと私を駆り立てた。会議中の奴をひっ捕らえ、ものの五分とせず戻り、彼女の手と、奴の手とを繋がせて叫んだ。これは夫たるお前の役目だ。もっとも大切なものを見誤るな!
 ……以前から、1号はなにかにつけて祖父に厳しい。もしかして嫌いなのかも。
「そうでもない。腐っても、彼女が愛し、選んだ男だからな」
 反面、祖母のことはたいそう好きみたいだ。1号は頷く。気軽に名前も呼べないくらい? と続ければ、硬そうな眉間がぎゅっと縮こまった。気がついていないとでも思ったのだろうか。嫌でも分かる。近所のお兄さんのような、幼馴染のような、絶妙な立ち位置のこの男を。ずっと見ていれば。
 どれくらいの好きだったか教えて。あくまで簡潔に。思いの丈を知りたいがゆえに問う。食い入るように見つめれば、ノーと言えないことは知っていた。彼はあたしの顔に弱い。唸るような機械音。しかめっ面は不機嫌だからではなく、ブレインサーキットを高速で動かしているためだった。最適な言葉を捻出しているのだ。普通ならあり得ない答えであっても、彼ならば現実の温度を伴う。導くのは、馬鹿正直で真面目な男だからだ。

「惚れ直していた、毎日」

 祖母はあたしが四歳のころに亡くなった。病死だった。自然の流れに沿いたいという彼女の意見を尊重し、治療は最低限に抑えられ、そして、早すぎる死を迎えた。
 祖母との思い出らしい思い出はほとんどない。何度か遊びに連れていってくれ、斜陽の中を、手を繋いで歩いた記憶がぼうと残るのみである。どんな話をしたのかも忘れた。ただただ、手のひらのやわらかさが、守られている安堵が、今でもなんとなしに蘇る。静謐な感触に憧れた、ということも。
 1号のことを、好きだった時分がある。ずいぶんと昔のことだ。若い脳が繰り出すのは告白にも満たない粗末な言葉であったが、意味合いは正しく彼に伝わった。その上で、応えられない、と返答をくれた。若干、正直すぎるところも彼らしい。
「お前は彼女に似過ぎている。すまない。お前といると……彼女とは別人であること。彼女はもういないこと。私が彼女を思っていたこと。今なお、それは変わらないということを、鮮烈に、まざまざと思い知るんだ」
 初恋はほろにがいものだ。

 強烈な違和感が血肉を渦巻く。懐妊し、日に日に膨らんでゆく腹も、いよいよしぼむ予定だ。
 夕刻。オレンジは赤に、赤は紫に、紫はやがて黒になる。病室の外には家族が勢ぞろいしていた。祖父と両親と、それから1号。ヘド博士はいまだ現役だ。三世代で世話になって末代まで、彼には頭があがる気がしない。旦那はあたし以上に青い顔をして、手をとり、力強く握り込んでくる。日焼けした皮膚の色味の違いをぼうと眺めた。
 確証はないが、しかし、祖母は――なまえは、愛情深い女性であるらしいから、知らぬふりなどしなかったに違いない。だって1号の愛する人だ。きっと、彼のことを思っていた。等しい情であったかは、別として。
 1号は。
 1号は、好きな人と手を繋ぎたかっただけだったんだろうな。
 陣痛がはじまった。太陽は完全に沈んだが、黒ににじんだ空は、まだまだ、より濃くなってゆくだろう。
 夜明けのなんと遠いことよ。


〈了〉



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