恋人を手にかけた宇佐美の話


 面倒な存在がいる。僕たちのことを追う刑事だ。そいつの諦めがわるさときたら、まったくありえない。幾度距離を離しても、知らぬ間に縮められ、また離し――堂々めぐりだ。
 情に厚く、他者をいつくしみ、強い正義感をもつ男の唯一の肉親を弾けば、いくらか楽になるかもしれない。そんな意見が出た。なんの因果か、その娘は僕の恋人だった。まあ、運が悪かったとしか言いようがないだろう。だれがへまをしたわけでもない。彼女は僕の職業を知らない。
 役割を為すのは、だれか。
 篤四郎さんが全員へ投げかけ、僕が一番に名乗りをあげた。なにか言いたげにしている奴もいたが、耳を貸さなかった。なにも昨日今日で決行することではない。備えが肝要なのだ。
 七日後。
 僕は恋人を手にかけた。

 煙草に火をつける。紫煙が立ち昇った。換気扇を回していないから、ぐるぐると巡るばかりでどこにも行き場がない。
 浴槽へおさまった恋人を見おろした。標準的な体型の女性だ。そんな彼女を血とともに沈めること自体、たいした労力も割かなかった。解体がおっくうなのだ。しかしとうに済んでいる。
 携帯電話の着信音。画面には非通知の文字。迷わず出た。
「首尾は?」
 菊田さんだ。肩の荷がおりたか、相手が彼でがっかりしたのか。ふう、と吐き出す息には副流煙が含まれており、まさしく有害だったろう。とっくに侵され尽くされた肺を持つ僕しかいないこの場で、だれかに配慮するわけでもない。
「上々ですよ」
 血を掬う。手を傾け、水面へしたたる音を聴かせてやった。

 七日間。僕と恋人は、なにを為すにも一緒だったのではない。僕たちにはそれぞれの生活がある。おおよそ、普段、の域を出ない行動をとったつもりだ。
 水曜日。昼休み中、ちょっとだけ出てきてもらい、ランチをとった。今週末、泊まりに来ないか誘った。恋人は喜んでいた。電話の向こうの声が弾んでいた。金曜日。夜、部屋へやって来た彼女とセックスをして寝た。土曜日。朝食は彼女が作った。以前から行きたかったという展覧会へ足を運んだ。日の暮れに帰宅し、夕飯を食べる前にまたセックスをした。次の料理担当は僕だった。薬を入れた。彼女が寝入ったのは午後九時ごろ。服薬も、死にきれないと、今度はすさまじい副作用に襲われる。あとから、何本も注射をした。何本も。何本も。注射痕だらけの腕はジャンキーのようで、彼女にふさわしくなかった。そのときからまず腕から切ろうと考えた。
 順当に死んでくれないかな。
 僕はそう思っていた。薬を服用して死に切れないと、少々厄介だ。篤四郎さんの投げかけに手をあげたとき。せめて、苦しまないようにしてあげようと決めていた。曲がりなりにも、彼女は僕の恋人であるのだから。
 恋人が息を引き取ったのはまもなくのこと。
 日曜日の空の色を知らないまま、恋人は逝った。

 衣服を着替え、浴室を出る。部屋中に広がるビニールシートには情緒がない。これから菊田さんと二階堂たちが来て、あれこれと整理しなければならなかった。だが、まずなによりも。僕は恋人の鞄を開く。
 大きすぎるほどのトートバッグ。生来、ものの選別が得意でない恋人のそれは僕にしてみてもかなりの重みだった。着替え。化粧品。タオル。枕。救急セット。生理用品。歯磨きセット。DVDのディスク、エトセトラ。種類自体はおかしくないが、品数に富み、どう考えたってこんなにいらないだろと思ってしまう。
 ふと、彼女のものたちの波間に封筒を見つけた。二通ある。なおざりに詰められていたため、折れ、曲がり、しわができていた。宛名にはお父さん、と、宇佐美くん、とある。彼女の字だ。大仰に喉が上下する。封を破く音が、なぜだか反響している。まるで浴室のように。
 爪と肉とのあいだにこびりついたわずかな血が、白い便箋を染めた。
「菊田さん」
「ん?」
「こいつ、遺書、のこしていたんですけど。どうしますか」
「遺書?」
「自殺を演出しようとしたのでは」
 彼はしばし間を空けた。神妙に言葉を選んでいるらしい。
「ばらしたのか」
「まさか」
「なら、どうしてそんなもの書いてる」
「知りませんよ」
 適当に返事をしながら読み進める。父親へ充てた内容は、なんてことのない。自殺の遺書として申し分ないものだ。死の理由。きっかけと、過程ごとの胸中の変化。懺悔。親や友人との思い出。謝罪。最後に、感謝。簡単に確認してみても齟齬のなさそうな、出来のよい手紙であった。次に、僕へ宛てたものも読む。
 ――宇佐美くんへ。ごめんね。今までありがとう。
 これだけ。
 これだけ?
 なんで?
 とっさに叫んでしまいそうになる。
 なにに対する「ごめんね」? どんなことを考えて「ありがとう」と書くの? 僕がそういう仕事に就いていること、本当は気がついていた? いつから? ずっと黙っていたの? だれのために?
 破壊された蛇口みたいに疑問が流れ出、頭蓋骨を満たしてゆく。
 だめだ。今はだめだ。
 あとにしなきゃ、と己を戒める。役割が残っている。まだ、遂行できていない。
「二通あります。父親宛てと、僕宛てと」
「そうか」
「手段、変えますか?」
「……いや、変更はなしだ。二通とも俺が処分する」
「……なんですか? よく聞こえません」
 声がやけに滲んでいて、思わず聞き返していた。
「二通とも俺が処分する、って、言ったぞ」
「はあ」
「はあってお前……」
「だって菊田さん。これ、僕への恋文なんですけど」
「あ? 遺書なんだろ?」
「ええ」
「なんて書いてあるんだよ」
「それ、僕が話すと思います?」
 電話口からたいそうなため息が聞こえる。あと二十分もせず着くからな、と言われ、通話を切ろうとした。
「おい」
「はい?」
「宇佐美、お前、ふざけた真似するなよ」
 あはは、と僕は笑った。
「もう殺してるんだから、ふざけようがないじゃないですか」

 構成員が来るまで、浴室で待つことにした。ここなら音が反響していたとしても不自然でない。つめたいタイル。血の浴槽。作業中、邪魔でしかたなかったシャワーカーテン。機能していない呼吸器をもった彼女のそば、再び遺書を眺めた。
 たった、二言だ。なのに、なかなか頭に入ってこず、手こずる。
 今回のことで、感傷にひたることだけは嫌だった。そんなみっともないことはないと思っていた。
 彼女は、僕のよい恋人であった。これは、事実だ。己をあわれむ情ではない。恋人を手にかけたこと自体、後悔していないのだから。しかし、だとすれば、この心地はいったいなんなのだろう。
 思うことがあるならば、七日間の猶予の使い方をあやまったのかもしれないということ。恋人と、恋人らしい生活を送る。それのなにがいけないのか、とのたまう輩は糾弾されるべきだ。
「ねえ、僕は、君と結ばれたことがまちがいだったなんて思わないよ」
 恋人の、生気のない手をとる。
「君もそうだったから、逃げなかったんでしょう」
 彼女の薬指、あるいは、小指。
 どちらか僕がもっていってよいですか。
 これは菊田さんの言う、ふざけた真似、の範疇なのかな。そんなこと言ったら、さすがの篤四郎さんでも怒るかな。いや。責めやしないさ。むしろ、うつくしい行いだと称えてくれるだろう。あの人ならきっと。


〈了〉



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