なまえが事故に遭って数週間が経とうとしていた。その間に俺は家を出て、古ぼけた民宿に身を置いていた。なまえが事故に遭った時、俺は身が引きちぎられそうな思いに駆られた。俺のせいでなまえは追わなくていい傷を負った。その事実がどうしようもなく俺も苦しめた。俺よりもなまえは痛い思いをしているのに。俺は。そう考えると飯も喉を通らなくてこの数週間で痩せこけた。


 なまえが事故に遭ったあの日。母さんとおそ松兄さんが救急車に同乗し、俺たちは父さんの運転する車で病院へと向かった。病院に到着するともう手術は始まっていて、手術中は気が気がじゃなかった。もし、もしもなまえが死んでしまったら。そんなはずはないと思いたかったけれど、倒れているなまえの姿を思い出すと、そのもしもが頭から離れなかった。


「…やっと、気付けたのに」


 気がついたらそんな言葉が口をついて出ていた。隣に座るおそ松兄さんが息を飲んだ気がしたけれど、そんなこと気にもならなかった。なまえが好きだってようやく気付けたのに。神なんていないんだろうけど、もしいるのなら殴ってやりたかった。こんなのあんまりだ。これがなまえを傷付けた罰だっていうなら、俺を傷付ければいい。それなのに、散々俺が傷付けたなまえをこれ以上傷付けるなんて、そんなのはおかしい。クソッタレ、誰に向けるでもなく心で呟いた。


 それから暫くしてようやく手術は終わり、出てきた医者を問い詰めるようにして結果を聞いた。手術は成功だった。命に別状がないらしい代わりに、外傷が酷く骨も何本か折れているらしい。病室に運ばれたなまえは至る所を包帯で巻かれ、見ていられないほど痛々しかった。

 皆ホッとしたように息を吐き、安堵した表情を見せ始める。だけど俺はそうは思えなかった。生きていてよかった、よかったけど。あの怪我は俺が負わせたんだ。女のあいつに、俺が。今まで散々なまえを傷付けてきて、最終的にはここまでの大怪我を負わせた俺が一体どんな顔をしてなまえに会えっていうんだろう。

 きっとなまえが何を言っても遅かれ早かれまた俺の家に住み始めるだろう。あの兄弟たちのことだ。うまく言いくるめる。だけど、なまえは俺がいるあの家に帰りたいだろうか。自分を散々傷付けた俺がいる家に、どんな気持ちで住むんだろうか。きっと俺なんかに会いたくないはずだ。それに、起きた時、もしかしたら俺を憎んでいるかもしれない。好きだと気付いた今、なまえに拒否されるのが怖くて仕方がない。俺は散々なまえを拒否したくせに、だ。

 最後に一度だけなまえに触れると、涙が止まらなかった。俺は家を出た。止めるおそ松兄さんを振り切って、当てもなく彷徨った。俺を探しているのは分かっていたから、猫を探し歩いている内に見つけた色々な抜け道や裏道を通って歩いた。だからか、見つかることはなかった。

 その内に安い古ぼけた民宿を見つけてそこに住み込むようになった。兄弟たちには隠していた貯金がここにきて役に立つとは思わなかった。何かあったときのために、とパチンコで勝った日に貯めておいた金だ。荷物は家族がいない間を狙って取りに行った。もう、あの家には帰れない。

 そして俺は古ぼけた民宿で何かから身を隠すように生活する日々の中で、深夜になると必ずなまえに会いに行った。面会時間はとっくに終わっているから誰に会うこともないし、なまえは寝ている。会いたい気持ちをどうしても抑えられなかった末でのこの行動だった。

 そして今日もいつものように病院に忍び込みなまえの病室へと入る。穏やかに眠るなまえは段々と怪我が治ってきているようで、少しつづ包帯が取れてきている。ただ、腕と足の包帯はいまだにぐるぐる巻きで、ギプスで固められた手足が痛々しい。それを優しく撫でて、寝ているなまえの顔を覗き込む。

「なまえ…」

 小さくなまえの名前を呼ぶ。当然返事はない。何度か優しく髪をすき、頬に触れるか触れないかぎりぎりに手を置く。

「好きだ…好きなのに…っ、」

 そして、こみ上げてくる涙を必死に堪えた。ここに来るといつもそうだ。愛しさとか苦しさとか罪悪感とかで胸がいっぱいになって泣けてくる。暫くそうしていると、ふいにギプスをしていないなまえの手が動いた。

 まずい、そう思い距離を取ろうと頬から手を離そうとすると、俺の手をなまえが掴んだ。

 ゆっくりと開いた瞼。恐る恐るなまえを見れば、視線がかち合い、息を呑んだ。


「一松」


 そして、一ヶ月ぶりに聞いたなまえの声に、堪えていた涙がすう、と頬を伝った。


愛は惜しみなく与う
(君が俺を見てくれるのならば)

#12/31/15