誰にも何も告げずに松野家を出て行ってから1週間が経った。お腹は空いたしお風呂に入りたいし温かい布団で眠りたい。そう思っても松野家に帰ろうという考えは不思議と浮かんでこなかった。

 あれ以上一松に迷惑をかけるわけにはいかない、嫌いな相手と4年もの間一つ屋根の下で暮らしてきた一松が可哀想だ、そんな言い訳ばかり頭に浮かんだ。本当は違うくせに。戻って、また一松に傷つけられたくないだけのくせして、いい子ぶる自分が嫌だった。


 そろそろ職を決めて家も決めなければならないのに。頭を占めるのは一松のことばかりだった。あんなに嫌われていると分かっても馬鹿な私はまだ一松が好きだ。きっと一目惚れだった。そして、私の初恋でもあった。初恋は報われないって本当だったんだ。乾いた笑みがもれる。


 そしてふと店のショウウィンドウに映った自分の姿に、目を見張った。よれよれの服にぼさぼさの頭。こけた頬にひどい隈。まるで放浪者だ。こんな自分の姿を見るのは実に4年ぶりで、そういえば松野家に拾われた時もこんな格好だったな、と拾われたあの日のことを思い出した。



 4年前、私の両親が交通事故で亡くなった。まだ未成年だった私は悲しみに暮れる暇もなく親戚をたらい回しにされ、誰が私を引き取るかで親戚は揉めに揉めていた。私の家は貧乏で借金もしていたから保険金は両親の葬式代と借金の返済ですずめの涙ほども残らず、お金も入ってこない私の存在は親戚にとっては邪魔者でしかなかった。

 そんな生活が嫌になり家を飛び出した私は無一文で街を彷徨い続けていた。声をかけてくるサラリーマンも一週間経てば誰もいなくなっていた。今と同じでよれよれの服にぼさぼさの頭。頬もこけて見るに耐えない顔だったと思う。

 何も食べず公園の水だけ飲む生活をしていた私はついに力果てて公園のベンチで横たわっていた。このまま死ぬのかな、死んだら両親に会えるかな。そう思いながら目を瞑った。いっそのこと、もう死んでしまいたかった。


 だけど、それは叶わなかった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい私は目を覚まし、違和感に気づいた。寝ていたのは公園のベンチのはずなのに、目の前に広がっているのは空ではなく天井。しかも温かい布団に寝かされている。きょろきょろと周りを見渡すと、どこにでもある一般的な和室。

 意味が分からなくて上半身を起こし、また違和感。見れば、服まで変わっている。あのよれよれだった服ではなく、大きいパーカーにジャージを着ていた。ここどこ?私の服は?なんでこんなところに?戸惑いながらまた周りを見渡していると、ふすまが開いた。そこから現れたのはめがねをかけた優しそうなおばさん。

「あら、起きたのね。おはよう」

「……え、あの」

「公園で若い女の子が倒れてたから、心配で家に運んできたのよ。体大丈夫?」

「…え、っと」

「あ、着替えさせたのは私だから大丈夫よ」

「………」

「それにしてもあなた痩せすぎよ。ご飯食べてる?」

「………」

「お腹すいてるでしょう、何がいいかわからなかったからおにぎりもってきたんだけど、食べれるかしら」


 私の話を聞く気があるのかないのか、ぺらぺらと喋っていたおばさんはお盆に乗っていたおにぎりを私に渡してきた。知らない人から出されたものを食べるなんて、と一瞬躊躇したけれど、悪い人ではなさそうだし、それになによりも私はお腹がすいて仕方がなかった。

 戸惑いがちに手の伸ばし、おにぎりを一口頬張る。すると、ほどよい塩味のおにぎりの味が口いっぱいに広がって私は貪るようにおにぎりを食べた。思っていたよりもお腹がすいていたらしい。お盆に乗っていたおにぎりを一瞬で平らげると、目の前に置かれたお茶を勢いよく流し込んだ。


「よっぽどお腹が空いてたのねえ。足りなかったかしら?」

「……あの、ありがとう、ございます」

「あら!いいのよ、そんなこと!」

 優しく微笑んでくれるおばさんにお礼を言うと、嬉しそうに笑ってくれた。それから、促されるままお風呂まで貸してもらい、またしても大きいパーカーにジャージを貸してくれた。久しぶりのお風呂は気持ちよくて、ちょっと長居までしてしまった。


「それで、どうしてあんな場所で寝ていたの?」

 お風呂から出てお礼を言うと、おばさんは不思議そうにそう聞いてきた。ここまでお世話になっておいて事情を説明しないのも悪い。そう思った私は両親が交通事故で亡くなったこと、親戚をたらい回しにされたこと、それが嫌になって家に飛び出したこと、行く当てもなく街を彷徨っていた事すべてを話した。

 そうするとおばさんは泣き出して、「大変だったねえ」と私を抱きしめてくれた。どこの馬の骨とも分からない私にこんなに親切にしてくれて、更には泣いてくれるなんて。その温かい体温に母を思い出して私まで泣いてしまった。

 それからおばさんは、私にこの家にいていいとまで言い出してくれた。それは悪いといったけれど、「行く場所がないならここにいなさい。家には六つ子の息子がいるから、1人増えても変わらないわよ。それに、娘がほしかったのよね」と言って笑ってくれた。

 六つ子というのには驚いたけど、こんなに温かい人のそばにいたいと思ってしまった私はうなずき、そして松野家に居候することになったんだ。


 もうきっと、あんな奇跡は二度と起こらない。お世話になった松代さんにも何も告げずに出てきてしまった。それをどうして今更のこのこと帰れるというんだろう。店の前で立ち止まっていた私は、また足を動かし歩き始めた。

 ああ、でも。一松に会いたいな。どれだけ邪険にされても、露骨に無視されても、酷いことを言われても、私はやっぱり一松が好きなんだ。家に帰らなくてもいい。一目見るだけでいい。嫌われてるから、気付かれないように、一瞬でもいいんだ。


 懲りないな、と自分に苦笑いが漏れた。でも自然と足は松野家に向かっていた。歩き続けて、あと少しで松野家に着く。そう思ったときだった。

 眩しい光が視界に入り、耳をつんざく様なブレーキ音が聞こえた。ものすごい衝撃を体が受けて、ゆっくりゆっくりと体が宙に浮かんだ。不思議と痛くはなかった。頭に浮かぶのは一松の顔だけ。地面に体がたたきつけられた瞬間、私は意識を手放した。


及ばぬ恋の滝登り
(最後にあなたに会いたいと思ってしまった)


#12/11/15