俺は、4年前から家に居候してるなまえという女が嫌いだった。やることなすこと全てが目に付いてイライラした。特に他の兄弟と話しているときは軽く殺意すら芽生えるほど。俺には見せない笑顔をちらつかせて、媚を売るように話すあいつが嫌いで嫌いで仕方なかった。だからといって、初めて会ったときから嫌いだったわけじゃない。

 初めてあいつを見た時の印象は「俺に似てる」だった。少しでかいジャージに猫背、細い顎にかかるかかからないか程度の短い髪は四方八方に飛んでいて、極めつけは世界に絶望しているような誰も信用していないかのような目。顔の素材自体は悪くないのに、半分しか開いていないその目のせいで全てが台無しになっているような、そんな女。
 だからだろうか、俺はあいつが苦手だった。自分を見ているようで少し落ち着かなかったし、なによりも似すぎていた。同族嫌悪、という言葉がぴったりとあてはまる。でも、今ほど嫌いだったわけじゃない。話しかけられれば返事はしたし、わざと無視することもなかった。

 あいつが嫌いだとはっきり思ったのはあいつが居候してから2ヶ月が経ったころだった。


 その頃、まだ他の兄弟たちに対しても俺に対してもさほど心を開いてなかったあいつが誰かの前で笑うところを一度も見たことがなかった。どうしたら笑わせられるか、という兄弟会議まで開かれていたほど(俺は興味がなかったから参加しなかった)。そんなあいつが始めて笑った日、俺はあいつを嫌いになった。

 原因はなんだったか忘れたが、おそ松兄さんがあいつに何かを言って、そうしたらあいつが、誰にも笑ってこなかったあいつが、初めて笑顔になった。それを見て、なんだか無性にイライラした。今まで感じたことのないイラつきと、胸がざわつく感覚が気持ち悪くて目を背けた。そんなことは初めてで、どうしようもないイラつきが手に余る。どうしてこんなにイラつくのか、俺にはわからなかった。だから、あいつが嫌いなんだと思った。その日から、やけにあいつが目に付くようになった。

 おそ松兄さんに笑顔を向けてからというもの、他の兄弟たちにも徐々に笑顔を見せ始めるあいつ。その顔を見るたびにイライラが増した。もうどうしようもなくて、でもそれをあいつにぶつけたところでどうにもならないと分かっていたから避けた。
 だから、俺の前であいつが笑ったことは一度だってなかった。それにも腹が立った。俺が原因なのはわかっていたけれど、でも苛立って仕方なかった。


 そんなとき、あいつに言われた言葉で俺の苛立ちはピークに達した。


『…あ、のさ。何で私のこと避けるの』

『………』

『わ、私、一松と仲良くしたいんだけど』

『…なんで』

『す、好きだから』


 クソ女だと思った。好き、だなんてそんなわけがない。だって俺はこいつと一度だってちゃんとした会話をしたことがない。それに最近は特に避けていたし、こいつが他の兄弟たちには見せる笑顔を俺に見せたことなんて一度もない。そんなみえみえの嘘をつくこいつに苛立つ。でもそれ以上に苛立ったのが、他の兄弟たちにも同じように、安易に好きと言っているだろうと簡単に予想が付いたから。ふざけんな、クソ女。
 どうしてこんなことにここまでイラつくのかは分からない。でも、それでも今までに感じたイラつきをはるかに凌駕するほどのイライラに襲われて、俺は軽蔑と苛立ちを隠すことなくこう言い放った。

『俺、あんたのこと嫌い。好きとか気持ち悪いんだけど。早くこの家から出てって』

 もう顔も見たくないとさえ思った。それほどに腹が立って、それと同時になぜか悲しかった。こんな持て余すような気持ちを俺は知らない。そんな気持ちにさせるこいつが、嫌いだった。

 それから3年半。俺はなまえを徹底的に避けた。ふたりきりになると話しかけてもこないあいつに苛立ちながらも切なくなったり悲しくなったりするのもなんだか気持ち悪くてとにかく避けた。そしてあの日。俺は、ついにその気持ちの正体を知ることになる。


 久しぶりに訪れたなまえとふたりきりの空間。俺は今日もよく分からない気持ちに苛まれ家を出た。そして適当に散歩をして時間をつぶし家に戻ると、そこにはなまえとおそ松兄さんの姿。ああ、まただ。胸がちりちりと焦げ付くような感覚と苛立ち。その気持ちを振り切るようになまえの言葉を遮り無視する。いつもなら何も言わないおそ松兄さん。だけど、この日だけは違った。
 なまえの頭をぽん、と軽く撫で、出て行くなまえを目で追い、足音が聞こえなくなった頃に俺に話しかけてきた。

「一松、なんか俺に隠してることあるだろ」

「は?…何急に」

 その時の俺は、頭を撫でられても抵抗のひとつ見せないなまえに激しい苛立ちを感じていて、それを隠すことなく刺々しい声を出す。

「お前、なまえのこと好きだろ」

「…何言ってんの。今までの態度見てきて分からない?俺はあいつが死ぬほど嫌いなんだけど」

「へえ、その割りに俺とか他のやつらがなまえと話してるとすげえ勢いで睨んでくるし、さっきもなまえの頭撫でた時すげえ怖い顔してたけどな」

「…だからなに」

「好きなんだろ、なまえのこと。だから俺らに嫉妬してんだよ、お前は」

「……は?嫌いだって言ってるじゃん」

 なにいってんだよ、おそ松兄さん。俺があいつのことを好きなわけがない。そもそも俺は、女に対してそういう感情を一度だって抱いたことはない。俺が好きになったところで気持ち悪いだけだろうし、叶うわけもない。それにそんな気持ちは煩わしい。俺がそう思っていることを一番理解しているのはおそ松兄さんだと思ってた。だからこんなことを言ってくるおそ松兄さんが理解できなかった。

「…あっそ。じゃあ嫌いだってことでいい」

「さっきからそう言ってるけど」

「じゃあ聞くけど」

「なに」

「…一松。お前なんでそこまでしてなまえを嫌うんだよ」

「…は?」

「別になんかされたってわけじゃないだろ」


 ああ、煩わしい。普段ならこんなこと絶対に聞いてこないのに。一体なんだって言うんだよ。イライラがまた募る。そんな俺を見て、おそ松兄さんは呆れたようにため息を吐いた。それにもまた苛立った。

「だとしても、おそ松兄さんには関係ないことだと思うけど」

「…ま、それもそうなんだけど」

 呆れた目つきに呆れた声。なんだ、なんなんだよ。それでも席を立たないあたり、俺がどうしてあいつを嫌いなのか聞き出すまで話を続ける気でいるらしい。めんどくせぇ。心の中でそう呟いた。ほっといてくれ、そう思った。だけど、目で話せと俺に訴えてくるおそ松兄さんに、俺はもう話すしかないんだと腹を括り、最初感じていた気持ちから話すことに決めた。


「……鬱陶しい」

「は?」

「…鬱陶しいんだ、あいつ。俺を見てるみたいでイライラするの。あの絶望したような目とか、だるそうな話し方とか猫背とか…吐き気がする」

「……お、まえ…」

「あいつと仲良くさせようとしても無駄だよ、俺にはそんな気さらさらないからね」

「…それが原因か?」

「…それに、あいつの兄さんたちに媚びうるような目とかが気に食わない。俺には絶対見せない笑顔にも腹が立つ。…気持ち悪いんだよ、この気持ちが。手に余って仕方ない、それも鬱陶しい」

「……一松、おまえやっぱり」

「もういいでしょ、これで全部。俺はあいつが嫌いなのは変わらないから」

 驚いた顔をするおそ松兄さんをおいて俺は立ち上がった。もうこれ以上はなしたくなかった。今までの気持ちを言葉にしたら、またイライラしてきてどうしようもない。それに、脳裏にあいつの顔がちらついて落ち着かない。そう思い居間の障子を開けて二階にこもろうと廊下に出ると、そこには立ち尽くすなまえがいた。

 ああ、聞いてたのか。その顔は絶望と悲しみが入り混じったような、なんとも言えない表情をしていて、それを見て胸がざわついた。くそ、気持ち悪い。俺はそれをかき消すようになまえに話しかけた。


「ああ、なに。聞いてたの。立ち聞きなんて趣味悪いね」

「………」

「聞いてたなら分かるでしょ。そういうことだから、早く出て行って。目障り」


 無視かよ。他の兄弟たちとは仲良く話すくせに、いじられたら楽しそうに笑ってるくせに。俺は無視ですか。まあずっとこいつを無視してきたのは俺だけど。でも、イライラする。何か話せよ。それで、兄弟たちにするように俺にも笑って見せろよ。

「…聞いてんの。…ッチ」

 いらいらする、いらいらする、いらいらして、吐きそうだ。ふと、なまえの顔を見るとその目は何も映してはいなかった。というよりも、さっきの表情は消えて、無になった。そんななまえの顔は見たことがなくて、凝視する。と、立ち尽くしていたなまえは急に動き出し、俺に横を通り過ぎて玄関に向かった。
 その瞬間、ふと香るなまえの香りが鼻について胸がつかまれたように苦しくなった。ああ、くそ、なんなんだよこれ。靴を履くなまえ。その後姿がやけに寂しく見えて、俺は何故か泣きそうになった。くそ、くそ、くそ、あいつのせいだ、あいつのせいで。

「もう帰ってこないでね、ゴミ」

 俺はそんな気持ちを隠すようにその後姿にそう告げた。何も言わずに出て行き、扉が閉まった瞬間、俺はあいつを追いかけたくて仕方なくなって、それを無視するように階段を駆け上がった。



 好きなんだろ、なまえのこと。その言葉が脳裏から離れない。好きじゃない、好きじゃない。俺はあいつが嫌いだ。そういってるじゃない。



 そんなこといって、俺は本当は気付いていた。おそ松兄さんに言われなくても分かっていた。ただ、ずっと、気付かないふりをしていた。だって、そんな気持ちは煩わしい。自覚していない今だって、ずっと俺を苦しめてくる。それにこんなクズの俺が、なにをどうしたらいえるんだ。

 なまえが好きだって、本当はずっと嫉妬してたなんて。

 俺は結局追いかけなかった。それからなまえが家に帰ってくることはなかった。


可愛さあまって憎さ百倍
(今更もうなにもかも遅かったんだ)


#11/23/15